92年夏。埼玉新聞社に勤務していた清尾淳さんは、東京・田町にあった三菱自動車本社に呼び出された。打ち合わせの席に置かれていたのは、数冊の「冊子」だった。

 「イングランドのクラブがつくっていた、マッチデープログラムでした。確かマンチェスターU、アーセナルなんかのものがあった。ノッティンガム・フォレストもあったかな」

 当時サッカー部のマネジャーだった佐藤仁司さんは、それらを示して「こういうものを、うちでもつくる。埼玉新聞で請け負っていただきたい」と言った。

 発行は9月5日、浦和がJクラブとして初めて開催する公式戦、ナビスコ杯市原戦。これが現在に至るまで25年にわたり、ホーム戦で発行され続けている、Jリーグ最古のマッチデープログラム(MDP)の第1号だった。

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 そのMDPが、17日大宮戦で通算500号に達する。59歳になった清尾さんは、今もMDPの編集長を務めている。05年に埼玉新聞を退社し、フリーとなって編集を続ける。

 チームはアジアチャンピオンズリーグに出場していた関係で、6、7月とリーグ戦で週2試合ずつの連戦を強いられていた。

 ホーム戦がめぐってくるペースも速い。それでも選手のインタビューや、クラブを取材し続けるライターによるコラム、下部組織の活動リポートなど、多くの企画をぎっしりと詰め込んだ誌面をつくり続ける。

 スマホ全盛。紙媒体が売り上げ確保に軒並み苦心するこのご時世にあっても、6月11日鹿島戦では準備した1万冊を完売した。

 「遠征が多かったので、移動に時間を割かれて、作業が大変なところもありました。ただ、昔に比べるとだいぶ楽になりました。当初は原稿をワープロ打ちして、ファクス送信して、印刷会社で再度打ち起こしてもらっていましたから」

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 93年、Jリーグが開幕した。「とりあえず年内」と請われてスタートした埼玉新聞のMDP編集は、この年以降も継続することになっていた。

 J初年度は5月半ば開幕にもかかわらず、リーグ全36節とナビスコ杯をこなす、超強行日程だった。

 ホーム戦、つまりMDP発行日は、常に直近の試合から中3日でめぐってきた。

 5月16日の開幕節G大阪戦終了後。埼玉新聞のスタッフは必死の作業で、ホーム開幕の名古屋戦のMDPを仕上げた。

 清尾さんが振り返ったように、今とは比較にならないくらい、1つ1つの工程に時間と労力がかかった。

 それでも何とか、締め切りには間に合った。しかし、胸をなで下ろした清尾さんに、印刷会社の責任者が暗い表情で頭を下げた。

 「申し訳ありません。こんな大変な作業を続けるのはとてもムリです。手を引かせてください」

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 「まさか1試合で手を引かれるとは思わなかった。次にお願いした印刷会社も、第1ステージ終了と同時に根を上げました。3社目でようやく、継続して請け負ってもらえるようになったんです」

 清尾さんは苦笑いしながら、当時を振り返った。何とか発行自体は軌道に乗った。しかしMDPの存在を知ってもらい、購読してもらうまでには、また時間がかかった。

 5000部を準備しながら、わずか178部しかうれなかったという「悲劇」もあった。

 「当時、つくっている我々には、そのことは知らされなかったんです。印刷会社が決まらなかったことも含めて、存続の危機というのは、おそらくあったのだと思います。でも佐藤さんたちは『大丈夫。続けてください』としか言いませんでした」

 日本にサッカー観戦の文化を広めるためには、ホーム戦観戦の手引となるMDPは不可欠だと、クラブは考えていた。

 J開幕当初、チームは負けが続いていた。クラブ公式のメディアながら「プロとして恥ずべき」などと歯に衣(きぬ)着せぬ記事も掲載した。これが共感を呼び、人気が高まりだした。

 「ファクスなどでチームに対する意見を受け付け、サポーターの声としてMDPに載せたのも、好評でした。今はツイッターなどで、誰もがチームに対する不満を語り合える時代になりましたが、当時はそういう場はなかったですから」

 2部降格からの1部復帰。ナビスコ杯、リーグ戦、そしてアジアチャンピオンズリーグ制覇。クラブが歩みを進める中で、MDPも48ページ建てにまで拡充。時に1試合で2万部を売り上げるまでに成長した。

 存続の危機を乗り切り、独自の色も出したことで、MDPは立派な「文化」になった。

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 清尾さんのこだわりの1つとして、観戦中のサポーターの様子を収めた写真を多く掲載する、ということがある。

 試合に夢中になっている、自然な表情を撮りたい。そのためには、試合中に撮影するしかない。

 ある時から、清尾さんは一眼レフを手にしてピッチに降り、試合中にスタンドにレンズを向けるようになった。

 ある時、編集部に1通のファクスが届いた。小学生の男の子を心不全で亡くした父親からだった。

 浦和サポーターだった男の子が旗を振って応援する姿が、MDPに掲載されていたのを見かけたという。

 この1枚が、生前最後の写真だった。

 清尾さんは大きくプリントして、両親の元に届けた。母親は泣き崩れながら、何度も礼を言った。

 「長くやっていますから、こういうことが何度かありました。もちろん、優勝直後につくったMDPも思い出深いものですが、それ以上に心に残っています。やはり、サポーターとのかかわりなくしては、このMDPはなかったと思う」

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 大宮戦での通算500号の発売を前に、清尾さんはすでに次のMDPの発行準備に取り掛かっている。

 「501号」が発売される8月6日湘南戦で、クラブはホームでの公式戦通算500試合に到達する。

 号数と試合数がずれているのは、97年に横浜F戦が雷雨中止になり、後日再試合が行われたため。このカードだけで、MDPが2回発行されたのだ。

 ともあれ、記念すべき一戦。MDPも80ページ以上という、例をみないスケールで刊行される予定だ。

 多くの関係者の証言。歴代のMDPの表紙。さらなる増ページも検討されるほど、多くの材料をそろえ、クラブの歴史を振り返る。

 「それら多くの情報をパッと一覧できるのが、紙媒体の良さというか、味だと思うんです。MDPが今の形でサッカー観戦文化に寄与していく余地は、まだあると思っています」

 大宮戦は、小中高生は全席種550円で購入できる「Go(5)Go(5)Reds!(0)デー」に指定されている。

 この試合をきっかけに、若年層にリピーターになってもらうことが狙いだ。

 そのためには、初めてスタジアムに来る子供たちに、試合の見方を提案する必要もある。MDPが果たすべき役割は大きい。500号の大台を突破しても、清尾さんたちの仕事は終わらない。