1万2000人のサポーターが4度目の優勝に拍手を送った。本来ならブルーに染まるスタンドだが、観客上限は50%。新型コロナ禍で特別なこの2年、心身ともに選手の負担は大きかったはず。何より「サポーターの声援」が制限された。最悪な状況での連覇。川崎フロンターレは本当に強かった。

強豪クラブの中では「後発」だ。過去のリーグ優勝チームは、いずれも1993年のJ発足時のメンバーかその候補。90年にJ参入を希望した20団体の中に前身の富士通はなかった。「アマチュア」を守り、企業チームとしてJFLで戦った。

プロ化へのかじを切ったのは97年。「川崎フロンターレ」として98年にJ2入りし、2000年には初めてJ1の舞台に立った。ただ、観客動員は低迷。J2初年度で1試合あたり平均5000人程度だった。J1では開幕直後こそ2万人を集めたが、その後は前年並み。プロとして人気がないのは致命的だった。

当時はバブル後の「Jリーグ低迷期」だった。01年に就任した武田信平社長が掲げたのは「地域密着」。その地道な努力に「後発」の強みが生かされた。

当時、川崎にはヴェルディ(現東京V)がいた。J発足時に東京に使えるスタジアムがなく、川崎は「仮住まい」。全国人気のクラブにとって川崎は「仮住まい」。地域活動に積極的とはいえなかったし、01年の東京移転も決まっていた。V川崎を反面教師として、地域との距離を縮めた。

小さな町の商店街。選手たちはどんな小さな店も一軒ずつ回った。「試合、見にきてください」と頭を下げ、自らの手でポスターを張る。若手だけではなく、日本代表のベテランも同じだ。お客をスタジアムに呼ぶとともに、自分たちのプレーに責任も生まれた。

銭湯でお客の背中を流したり、着ぐるみでバナナを売ったり。「そんなことより練習しろ」という声もあったが「地域密着」というクラブの信念を貫いた。黙っていてもチケットが売れたバブルは知らない。もともと人気があったわけでもない。「後発」だから、何でもできた。

Jリーグの観戦者調査で、10年連続「ホームタウンで大きな貢献をしているクラブ」第1位に輝く。それだけ、地域にとって川崎Fの存在が大きいということ。これこそ、優勝以上に価値ある賞かもしれない。来年、等々力スタジアムは再び川崎のサポーターで満員になる。【荻島弘一】