プロランナー川内優輝(32=あいおいニッセイ同和損保)が15日、山口県防府市で「防府読売マラソン」に出場し、フルマラソン節目の100回目に臨むも、自己ベストに及ばない2時間14分17秒で7位に終わった。3連覇も逃した。

節目で燃えていた。だが序盤から先頭集団で展開も、20キロ過ぎに早くも脱落。険しい表情でゴール後は、両手を膝について肩を落とした。節目の感想を問われ「100回目だったが恥ずかしい結果。最近ペースメーカーが外れる前に落ちるレースが続いていて、そういう意味でこの1年を象徴する悪いレースをしてしまった」とうなだれた。

どんなに調子が悪くても、絶対に諦めない走りを続けてきた。先頭と大きく離されても、不死鳥のようによみがえる姿こそが、人をひき付けた理由でもあった。だがこの日、代名詞でもある執念の粘りが不発。今春のプロ転向後、惨敗が続く現状に「なんとかしないといけない。大変な状況です」と危機感を募らせた。

それでも前向きだ。09年2月の別大大分毎日でフルマラソンデビュー以来の金字塔は通過点で「来年の6、7月ごろにサブ20(2時間20分以内)100回になるので、そこに重点を置いて行きたい」と意気込む。

さらには、“生涯現役宣言”も飛び出した。「ボストンマラソンを80歳で走りたい」と言い、フルマラソンの回数については「10年で100回を考えると、500回ぐらいを目標にと思います」と壮大な夢を描いている。

不調でも負けるわけにはいかない。学習院大卒業後は公務員の市民ランナーとしてキャリアをスタート。レースで身の回りの事は1人でこなすのが当たり前だった。だからホテル、送迎など恵まれる招待選手になれば、絶対にレースを欠場しない。それが信念だ。

16年福岡国際では両足とも満身創痍(そうい)の状態で強行出場。日本トップの3位に入り、自分で「奇跡」と言い、世界選手権の切符を手にした。招待選手のありがたみが分かるからこそ、招待のレースはスケジュールの都合以外は引き受けてきた。実戦で調整を重ねるスタイルが自身に合っていたこともあり、レースの回数は自然と増えていった。

過去に最も悔恨が残るレースも川内らしい。11年6月の隠岐の島ウルトラマラソン(50キロ)。残り1キロ、暑さの中で意識が薄れ、ゴールできなかった。これまで出場してきたフルマラソン100回を含む約「570回」というレースキャリアの中で、唯一の途中棄権。どんな状況でも戦い抜く誇りが、へし折られた事象だ。思いは強いゆえ、心にも深く刻まれ、暑さはトラウマにもなった。20年東京五輪の代表選考会MGCの回避を選んだ原体験にもなった。

今後は、練習量や練習方法でさらに工夫を加え、課題のスピードに対応できるレース展開を目指し取り組んでいく予定だ。座右の銘「現状打破」で再起を期す。