レスリング男子グレコローマンスタイルでリオデジャネイロオリンピック(五輪)銀メダリスト、太田忍(25=ALSOK)の戦いが突然の幕切れを迎えた。

今月中旬の全日本選手権の67キロ級の初陣でまさかの初戦負け。東京オリンピックをかけた国外の予選に出場する権利を逃し、2度目の大舞台が夢に消えた。

太田にとって2019年の下半期は、2度の絶望に襲われた過酷な日々をとして記憶されるだろう。

1度目はライバルの文田健一郎が2年ぶりの優勝で東京五輪を内定させた9月の世界選手権。主戦の60キロ級での代表の可能性が消滅した時だった。非オリンピック実施階級の63キロ級に出場していた太田は、現地で後輩の朗報、自身への悲報を聞いた。

そして、2度目が階級をオリンピック実施階級の67キロ級に上げて臨んだ全日本選手権だった。周囲も本人も国内では優勝当たり前で、世界で勝ちきれるかにフォーカスする空気での初戦負け。「先を見すぎた」という猛省の弁には救いはもたらされないが、しかし、負けてなお、太田は太田らしく魅力的だった。そこに強さもあった。

担当記者として接する中で響いたその「生き方」を、負けたいまだからこそ書きたい。話は1度目の絶望の直後にさかのぼる。

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むき出しの感情は劇薬で、人をいや応なしにとりこにすることもあるし、嫌悪感の固まりの対象としてさげすまれることもある。直情的な言動は、「スポーツは文化」というスローガンの元で、どこか忌避されるべき雰囲気もなくはない。ただ、優等生ばかりあふれても、スポーツの語源である「遊び」は消え去る。それが格闘技ならなおさら、包み隠さない本性のぶつかり合いが見たくもなる。

9月、カザフスタンの首都ヌルスルタン、レスリングの世界選手権で厳しい現実に直面しながら、必死に耐えようとし続ける太田の姿は、決して「文化的」ではなかったかもしれない。ただ、その心の揺れ方を感じ取った者には、その人間らしさこそが1つのスポーツの本質ではないかと感じ入った。

1度も世界選手権の優勝がないにも関わらず、リオデジャネイロ五輪で一気に勝ち上がり銀メダルにたどり着いた太田。ブラジルの地にパートナーとして帯同したのが、その後の3年間で男子グレコ60キロ級の覇権を争い続けることになる文田だった。「当時の健一郎なら、おれがすぐぼこぼこにできますよ」。それは誇張ではなかっただろう。文田自身も「リオの時は五輪に出るなんて、具体的に考えていなかった」。ただ太田が見せた銀メダル獲得の過程こそが、大学レベルでくすぶっていた文田の才を開花させることになった。

16年12月 全日本選手権初優勝

17年5月  アジア選手権優勝

17年6月  全日本選抜選手権優勝

17年8月  世界選手権初優勝(グレコローマンスタイルでは日本人史上最年少の21歳8カ月、日本勢34年ぶりの優勝)

「あいつがいなければいい。うっとうしいですよね。」

「次はぼこぼこにしてやりますよ」

太田は急成長する文田への生半可じゃない心境を隠してこなかった。なぜか。

「なんでみんな言わないのかな。そんな格好つけても、取材とかも書き手によって変わるし、人の聞き方によっても変わるのに。格好つけた言い方で伝わらないことがあるんなら、好きなこと言って、それを拾ってもらった方がいい。結構、おれが言っていることと違うなと書かれることあったし。ただ、本当に思っていることを全部言ったら、どこ取られても自分が言っていることだし。捉え方が違うというのはあるけど。『もうちょっと言葉遣い直しな』と言われるけど、それはそうかなと」。

ライバル関係を追ったNHKのドキュメンタリー番組では「ぶっ殺す」という言葉が流れたが、そこだけ字幕がついていなかったこともあった。

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世界選手権、ここが2人の関係性の1つの終着地になる場所だった。60キロ級の国内での代表争いを制した文田が表彰台に上がれば、その時点で東京五輪代表に内定する。63キロ級にエントリーした太田は一足先に優勝を決め、「60はおれの階級だと思っている。おれにとっていい結果になってほしい」と表彰台外の結果を望む、変わらぬ衣着せぬ願いを口にしていた。

結末は…。一方で「健一郎以上に強い選手はいないでしょ」と認める予想通り、2日間開催の競技1日目の準決勝に勝って、東京行きが決定。その夜に太田の60キロ級での可能性が消えた。スタンドで文田の準決勝を見つめた太田は、席を立ち通路へ戻ると1人、静かに涙を流した。

本当の区切りがついたのはその後だった。準決勝を終えてアップ場に戻った文田の目の前には太田がいた。

互いに声が出なかった。

「ありがとうございました」? そんな単純な感情ではない、くくれない起伏が言葉にふたをした。

一度だけ、抱き合った。肉体で会話するレスラーにはそれがすべて。十分だ。

リオから3年。マットの対角線でしか会話してこなかった2人に訪れた一瞬の融合。それが濃密だった「60」をめぐる争いの終着点だった。

そして翌日。

文田が決勝戦に向けてアップ会場に入ると、そこには太田の姿があった。相手のエメリン(ロシア)は3月の国際大会で手合わせし、ロシア独特のグラウンド技の餌食になっていた。「忍がやってくれるって」。太田は自らの体を貸し、背中を押した。

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決勝に勝ち、2年ぶりの世界王者の地位に返り咲いた文田。その視点からこの一連の出来事を聞くと、こうなる。

「忍先輩も何も言わず、自分も伝えようとしたんですけど、互いに言葉が出なくて、抱きしめてくれて。すごく暖かくて、やっぱり特別なんだな、と。忍先輩で良かったなと思って、本当に、言葉とか交わさなかったんですけど、抱きしめてくれて、そこで、1つの区切りがついたんだなと僕も思いましたし、忍先輩もそう思ったと思う。別に何も直接昨日はしゃべってないんですけど、全部もらったというか。東京に向けて勇気をもらった」。

そして続けた。

「たぶん忍先輩が思っているように僕も思っていると思います。『いなければ良かったのに』と思ってますし、なんで世代かぶったんだろうなと思ったこともいっぱいある。あんまうまく僕は(言葉に)出せないので、忍先輩が代弁しているみたいな。忍先輩が悪役みたいにみえて好きじゃないんですけど、自分も同じように思っている。向こうも本気で思ってますし、でもいがみ合うんじゃなく、いい距離感、いい関係でやってこれたから、いまがあると思う」。

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その数時間前、自らが躍進のきっかけを作った後輩の変貌に五輪レースで敗れた太田は、報道陣の前に立っていた。

いつ何時でも、逃げない、むき出しをいとわない。

「文田選手が東京五輪の内定を決められましたが?」

聞かれた。聞き手は前日に無言の抱擁があったことなど知るよしもない。当然の質問だ。

答えるまで、間が要った。そして顔はゆがんだ。言いたくても言えなかった言葉をここで口にしていいのか…。一瞬の迷い、それを言えば完全に「60」をめぐる戦いの敗北を認めることになる一言。ただ、その数秒で太田の覚悟は決まったような気がした。片方の唇だけ不自然にあがった顔のゆがみに、とまどいは消え、いつもの眼光の鋭さが戻り、こういった。

「おめでとう…。おめでとうございます」。

これで本当に終わりだ。2度目の祝福はあえて丁寧語だったのが、らしい。それからは67キロ級へ向けた高らかな決意表明の時間だった。それもまた太田らしい、直球勝負の発言続きだった。

「もう僕は60に用はない。67のほうが楽しそうだし。世界王者が僕合わせて6人もいるし。そんな階級ないでしょ。やる価値はありです」。

「気持ちの切り替え? まだできてないですけど、全然。いろんな思いはありますけど、1年前で決めるのかよと思うけど、決まりだから仕方ないし。僕も1年でやることいっぱいあると思うし、どうこう言っていられない。東京で金を取る目標は変わってない。それが67になっただけのことなので。見ていておもしろそうだなと思っていたし、やりたいとも思っていたので、もちろん60なら金メダルは堅いと思っていますが、それができないので、自分はもうレベルの高い試合で勝ったらもっと格好いいと思うので」。

強がりでもいい。切り替えなんてそう簡単にできるわけじゃない。そのまま、いまの気持ちをつなぎ続けること。

そして、63キロ級で自身初の世界一を経験した翌日に「地獄」に落とされた男は、もうその翌日には練習を再開していた。「こそこそやっていたのになんで知ってるんですか」と恥ずかしそうにする様も、なんだか、太田らしかった。

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それから3カ月。太田は67キロ級に挑み、そして散った。「60への未練? 迷うとかよりやるしかなかったから」。ためらいも許さぬ覚悟の上にマットで努力を続けた末の結末としては、言い訳は聞かないが勝負の残酷さはありあり感じた。そしてまた、世界選手権と同じように「絶望」の中にいる太田の言葉を聞く時間がやってきた。その開始4分過ぎ。心境をおもんぱかった関係者が取材を打ち切ろうとした時だった。

「僕は全然答えられますよ。みなさんの前に出ることもあんまないと思うんで、聞いてやって下さい。良かったらどうぞ」。

変わらなかった。9月に文田に対する気持ちを求められた時と変わらなかった。やはり、この男は逃げないんだなと。それから10分以上も話しを続けた。最中、やはり文田に対する思いを聞かれた時も、同じだった。

「僕の口からはもう本当に『頑張れよ』とか言うこと自体が申し訳ないくらいの結果。僕が『頑張れ』とか言わなくても、彼は100%東京で金メダルを取ってくれると思うし、彼が世界王者になった時に『一緒に金メダル取りたい』と言ってくれたことがすごくうれしくて、僕もそれを達成したいと思って、きましたけど、こんな形で五輪にすら出場しなくて、言ってくれたことを果たせないのが、情けない、ただそれだけですね」

汗と一緒に涙がこぼれ落ちる姿には一切の誇張も虚飾もないと感じた。

実はこの3カ月間、太田は文田への助言を度々してきた。同じ道で先頭を競っていた間柄から、違う道で同じ目標を目指す先輩後輩になり、「やるしかない」中で行動は真っすぐだった。

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文田は太田の初戦敗退をスタンドから見ていた。

「ずっと見てきて、すごくたくさん助けられた、勝手にですけど。どんな時でも、強い、先輩です。僕は2人で東京で金とずっと考えてました。すごく複雑です」。

強い、少し語気を強めたその言葉が印象的だった。その言い回しは試合だけでないものを含んでいるのが分かった。

同じく。むきだしのその強さをもう少し見ていたかった。【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

レスリング天皇杯全日本選手権 男子グレコローマンスタイル67キロ級1回戦 井ノ口に敗れ肩を落とす太田(撮影・滝沢徹郎)
レスリング天皇杯全日本選手権 男子グレコローマンスタイル67キロ級1回戦 井ノ口に敗れ肩を落とす太田(撮影・滝沢徹郎)