「見栄を張るのは疲れました」。萩野はさらりとそういった。16日の公開練習。リオ五輪金メダリストにの言葉には自嘲も強がりも感じられなかった。ただ思ったことをそのまますっと口にしたように聞こえた。
萩野は五輪連覇よりも、200メートル個人メドレーでの挑戦を選んだ。日本水連は19日、代表選考を兼ねた日本選手権(4月3~10日、東京アクアティクスセンター)のエントリーリストを更新。萩野は400メートル個人メドレー、100メートル背泳ぎから名前がなくなった。
同選手権は200メートルの個人メドレー、自由形、背泳ぎの3種目になった。400メートル個人メドレー、通称「4コメ」はその王者に「キング・オブ・スイマー」の称号が与えられる。萩野にとって五輪金もとった思い入れの強い種目だ。ではなぜ回避することになったのか。
萩野は19年春、3カ月の休養をとった。モチベーション低下が理由だった。4コメはバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形を100メートルずつ泳ぐ。レース時間は4分を超えてスピード、技術、持久力も必要だ。競泳界では4コメと2バタ(200メートルバタフライ)が肉体的にも精神的にも「きつい種目」とされる。萩野自身も「生半可な覚悟ではできない」。距離が短くなる2コメ(200メートル個人メドレー)とは当然、練習メニューも異なってくる。400メートル中心の練習で200メートルは泳げても、200メートル中心の練習で400メートルを泳げない。200メートルならば4泳法すべての種目があるが、400メートルは個人メドレーと自由形しかない。4コメは、選手に対して、多くの要素=種目への献身を求める。
萩野にとって4コメと2コメは気持ちの上で違いもあった。4コメはリオ王者で連覇がかかる「ディフェンディングチャンピオン」。2コメはリオ銀メダルで頂点=金メダルを狙うチャレンジャーとして臨める。
萩野は、リオ五輪1大会で金、銀、銅とメダル3個を獲得した。休養中に「やめようと思えば、やめられる立場にあるかもしれない」と悩んだように、すでに功成り名遂げたアスリートといえるだろう。それでも「やめるのはここじゃない」とプールに帰ってきた。
ただ休んだからといってすべてが好転するほど、4コメは甘くなかった。復帰後2コメは比較的安定していたが、4コメはレースによって波があった。昨年12月の日本選手権は優勝。だが2カ月後の今年2月のジャパンオープンは6位。平井コーチは「(4コメが)負担になっていることは事実。積極的に臨める種目を選ばないと好結果につながらない」と心配していた。二兎(と)を追うことに、リスクがあったことも事実だ。
4コメ回避は、日本選手権の競技順もあっただろう。東京五輪の日程をモチーフに、4コメは第1日、2コメは第7、8日だ。萩野が「五輪と同じぐらいプレッシャーがかかる大会」という一発勝負の選考会。滑り出しでボタンを掛け違えれば、何が起こるかわからない。競技順序が2コメ→4コメならば、2種目挑戦の決断もありえたはずだ。
2月からは200メートルの練習がメインだった。ただ3月17日までの長野・東御合宿では、平井コーチが「4コメでも勝ちにいける実力も戻っている」というほど復調していた。4コメで五輪連覇に挑めるのは世界で萩野ただ1人だけ。その誘惑を断ち切って現実を直視して「日本代表として戦える種目」を潔く選択した。
五輪王者の連覇断念は国内はおろか、海外のライバルにとってもサプライズだろう。萩野は不調だった昨年春を振り返って「今思えば、世間体、こうでないといけない、という水泳と関係ないことを考えていた。今はどう練習しようかなとナチュラルでいられる」という。
あとはレースで全力を尽くすだけ。「五輪連覇」の荷物を降ろした萩野に、もう迷いはないだろう。そして、それは周囲が思うほど大きな決断ではないのかもしれない。【益田一弘】
◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の45歳。五輪は14年ソチでフィギュアスケート、16年リオで陸上、18年平昌でカーリングなどを取材。16年11月から五輪担当キャップとして主に水泳取材。



