日本の名フィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」を今日1日からスタートする。20-21年シーズンの初日に、新型コロナウイルス禍から新たな1歩を踏み出す願いを込めて、選手や功労者の今なお色あせぬ記憶と証言を通じて、氷上の煌めきを呼び起こす。第1回は浅田真央らを指導した佐藤信夫コーチ(78)。初出場した60年スコーバレー五輪(米国)の男子シングル金メダリスト、デヴィッド・ジェンキンス(米国)のフリーを回想する。

    ◇    ◇

関大一高3年時の佐藤信夫
関大一高3年時の佐藤信夫

ちょうど60年前の震えを覚えている。18歳の高校生、佐藤青年はスコーバレー五輪の最終日、地元米国のスケーターの躍動に興奮が満ちるスタンドで、いまも忘れぬ滑りを見た。

「それから生涯、頭の中から離れない、そういう存在ですよね。まだ高校生を卒業する時の年代で初めて見たのが、私にとっては強烈なインパクトを与えられたことは間違いないですね。本当に体が震えるほどでしたから」。

急いで向かった客席だった。前半の組で自身のフリー演技を追えると、傍らに録画用の8ミリ映写機を抱えた。当時は屋外リンク、空の下で規定で2位につけたジェンキンスの出番が迫ってきた。166センチの小柄は自分と大差ない。ただタイトな黒のモーニング風衣装に、黒いちょうネクタイで滑り出すと、もう似ている所はなくなった。人生で初の海外であり、外国選手の滑りを映像ですら見たことはなかった。その全てが未知で衝撃の連続だった。


55年2月、フィギュアスケートの世界選手権ウィーン大会で躍動感あふれる演技を行うデヴィッド・ジェンキンス(ゲッティ=共同)
55年2月、フィギュアスケートの世界選手権ウィーン大会で躍動感あふれる演技を行うデヴィッド・ジェンキンス(ゲッティ=共同)

「予備知識なく見る私にとっては、ゴムまりがポンポン、跳ねているような印象を受けたんです」。

体を縮め準備に入ると、人間業と思えない高さで浮き上がる。余裕を持った回転で着氷すると、降りた片足で滑り続け、フリーレッグは氷に着かないままターンで止まる。当時は数人しか跳べなかった3回転でサルコーとループを決めるだけでなく、さらに上をいっていた。圧勝だった。

「その躍動感。自分にとっては追い求めていく理想ですよね、いまでも」。

いま手元にある8ミリフィルムは、ジェンキンスが2重に映っている。途中でゼンマイを巻いてフィルムを反転するのを忘れた。それほど夢中だった。海抜1500メートル以上にもかかわらず、演技後も何事もなかったようにスッと終わって帰ってくる姿まで捉えたその映像は、いまも指導の礎である5分間となった。

その衝撃がさらに色濃くなったのは、近年だ。映像で見た事実におののいた。

「57年に米国でエキシビションを彼がやっているのが映ったことがあるんです。彼が軽々とトリプルアクセルを跳んでましてね」。

競技会で3回転半の初成功は78年世界選手権のテイラー(カナダ)を待つ。その20年以上も前。ただ、スコーバレーでは2回転半まで。それでも、極東の島国のスケーターには別世界の人間に見えた。

「跳べるのに、そういうのはみじんも見せない。我々なら、いの一番にやるところですけど、彼はやらないで、100%自分がミスなくできるものだけで、構成して、それで他の人を大きく引き離したんです」。


58年3月、華麗なジャンプの演技をみせる佐藤信夫
58年3月、華麗なジャンプの演技をみせる佐藤信夫

海外選手の映像が日本にもたらされたのは、どこの会場でもカメラを回した佐藤の功績が大きい。それ以前は写真をパラパラ漫画のようにし、技術を学ぼうとした。スコーバレーでの映像も何度も仲間と見返し、それが“種”となった。ジェンキンスのあまりにも抜きんでた滑りに出合った佐藤の運命が、60年後の日本フィギュア界に“花”を咲かせている。

本人とは一度だけ会話がある。1965年の世界選手権で日本人初の3回転サルコーを決めて4位に。日本人で初めて、その後の欧米を回るエキシビションツアーの一員に選ばれた。試合翌日の朝10時、練習のリンク。

「リンクサイドから手を振って呼ぶ人がいるので、誰だろうと。そうしたら彼がいた。『昨日はすごく良かったよ』と言ってくれましたね。その時は足が震えるほどで」。

五輪会場に続く「震え」の翌66年、全日本選手権で10連覇を成し、24歳で引退して指導の道に進んだ。それから毎日リンクへ足を運ぶ生活を続けてきた。いま、男子は4回転半の到来も予見させる。ただ…。

「技術的にはその後にどんどん変わり、参考にならない所もいっぱい出てますが、ポンポン氷の上を跳ねて遠くにいってしまうようなあの滑りを忘れたことはないですね。いまも変わらない、フィギュアのすごさがあると思うんです」。

教えながら追い求める60年前。佐藤はそれを「夢」と言う。【阿部健吾】

※スコーバレー五輪男子フリーのジェンキンスの演技は、国際スケート連盟(ISU)の公式YouTubeチャンネルで見ることができる。URLは https://www.youtube.com/watch?v=1VL_btSmVTA 3回転サルコー、ループのスローモーション映像もあり、「ゴムまり」と称する跳躍を味わえる。


リンク脇で選手を見つめる佐藤信夫(2014年3月27日撮影)
リンク脇で選手を見つめる佐藤信夫(2014年3月27日撮影)

◆佐藤信夫(さとう・のぶお)1942年(昭17)1月3日、大阪市生まれ。小学6年からフィギュアスケートを始める。全日本選手権は56年度から10連覇。五輪は60年スコーバレー大会14位、64年インスブルック大会8位。グルノーブル五輪8位の久美子夫人(現コーチ)と69年に結婚。10年2月に世界殿堂入り。佐野稔、松村充、佐藤有香、安藤美姫、村主章枝、中野友加里、小塚崇彦、浅田真央らを指導。

◆デヴィッド・ジェンキンス 1936年6月29日、オハイオ州アクロン生まれ。地元ホテルの財団の支援を受けながらスケートを続ける。1956年コルティナダンペッツォ五輪で銅メダルを獲得。兄で金メダリストのヘイス・アラン・ジェンキンスと表彰台に上がった。57年から世界選手権を3連覇して臨んだ60年スコーバレー五輪で、兄に続く金メダルを手にした。同年に引退し、プロスケーターとして活躍し、40代でも3回転ジャンプを跳べたという。