激痛、球数…あらゆる理屈を超えた近江・山田陽翔の170球 中0日で大阪桐蔭にぶつけた名伯楽の自白と涙

全国各地で、球児の夏が始まりました。史上最多、3度目の甲子園春夏連覇を狙う大阪桐蔭と、甲子園で2季連続で顔を合わせたのは、滋賀の実力校・近江。2022年のセンバツでは、山田陽翔投手(はると=3年)が準決勝で左足首に死球を受けながらも、連投で大阪桐蔭との決勝に臨み、3回途中4失点で力つきました。球数制限の新時代に、体調に不安を抱えたエースを連投マウンドに送り出した理由とは…。多賀章仁監督(62)が、決断の裏側を語ります。(敬称略)

高校野球

堀まどか

浦学との準決勝、5回に死球を受け痛がる山田=2022年3月30日

浦学との準決勝、5回に死球を受け痛がる山田=2022年3月30日

▷準決勝の浦学戦 左足首に死球

天は願いを聞いてくれたのだ、と多賀は思った。3月31日、決戦の日。朝から雨が降っていた。

前の晩から、多賀は祈っていた。「1日、せめて1日、時間がほしい…」。雨空を見上げる多賀の脳裏に、もんどりうって地面に倒れ込んだ山田の姿が浮かんだ。

30日の準決勝・浦和学院(埼玉)戦。1―2の5回の打席で、山田は左足首に死球を受けた。氷で冷やし、テーピングをしても、動くたびに激痛が走った。

そんな状態で、山田はマウンドを譲らなかった。左足を引きずってマウンドとベンチを往復し、打席で打っては、はいつくばるように一塁に走った。その姿を見守りながら、多賀はベンチで泣いていた。

延長10回、汗を飛ばして力投する山田。雄叫びが銀傘に響いた

延長10回、汗を飛ばして力投する山田。雄叫びが銀傘に響いた

「投げさせていていいのか。山田をマウンドから下ろしてやれる、その決断を下すのは監督のぼくしかできないと。そういう気持ちがありました」

だが強敵の浦和学院を相手に劣勢を覆し、勝ちきるために、エースの存在は不可欠だった。

「こんなところで代えたらもう、その時点で降参と言っているのと一緒。山田は降りる気など、全くなかった。それに野手が気持ちのこもったプレーで、山田をもり立てる。山田のピッチングに応えようと懸命だった」

▷銀傘に轟く絶叫 延長11回サヨナラ 

7回、近江はスクイズで追いつき、延長戦に突入。自らを鼓舞する山田の絶叫が、甲子園の銀傘に響き渡る。延長11回、捕手の大橋大翔(3年)の3ランでサヨナラ勝ち。170球を投げ抜いた山田は試合後、病院に直行した。

打撲の診断が、甲子園から宿舎に戻る途中でチームバスに届いた。

「明日のことは明日になって、朝から考えようや。また朝になったら痛みも出るかもわかれへんし。どうするかは、明日の朝に考えよう」

決勝進出を決め、握手を交わす多賀監督と山田。手負いの力投は名伯楽を揺さぶった

決勝進出を決め、握手を交わす多賀監督と山田。手負いの力投は名伯楽を揺さぶった

宿舎で顔を合わせた山田に、多賀はそう告げた。さらに付け加えた。「雨もあるしな…」。エース先発の結論は、翌朝に持ち越した。だが、多賀の腹は決まっていた。

翌日、スタメン表に書き入れる投手の名前は、やはり山田だった。

▷制限まで116球の決勝戦…大阪桐蔭

状況は厳しかった。骨に異常はなかったとはいえ、足を引きずらなければ山田は歩けない。体調への不安に加え、1週間500球の球数制限の対象となる2回戦・聖光学院(福島)戦から準決勝まで6日で384球を投げていた。決勝で投げられる球数は116球限定。最後まで投げきるには微妙な球数だった。

しかも、相手は大阪桐蔭。1回戦・鳴門(徳島)戦こそ相手エース冨田遼弥(3年)の巧投に手を焼き、3―1の辛勝だったが、準々決勝以降は持ち前の攻撃力が爆発した。準々決勝は6アーチ17得点で市和歌山を沈め、準決勝は19安打13得点で国学院久我山(東京)を圧倒。並大抵の防御では持ちこたえることのできない打線だった。

だから、山田だった。

激痛に耐えながら、準決勝で170球完投した山田の疲労度が分からない多賀ではない。手負いのエースを連投のマウンドに送ることへの周囲の拒否反応も、十分想像できた。

それでも、山田だった。

▷01年夏「三本の矢」で準優勝

2001年夏、多賀は島脇信也(元オリックス)、竹内和也(元西武)、清水信之介という3人の投手を自在に使い分け、県勢最高の準優勝を成し遂げた。快進撃を支えた投手陣は「三本の矢」と呼ばれた。

01年夏の準優勝。決勝は日大三のエース近藤が駆使するコーナーワークに手を焼き、2―5で敗れた=2001年8月22日

01年夏の準優勝。決勝は日大三のエース近藤が駆使するコーナーワークに手を焼き、2―5で敗れた=2001年8月22日

戦国時代の智将、毛利元就が隆元、元春、隆景の3人の息子に兄弟の結束を強く説いたという故事にたとえた呼び名。先発完投が主だった高校野球界において、見事な分業制はモデルケースとなった。ただ、周囲の見方と多賀の考えは、違った。

「同じ力量で継投できる投手をそろえるのは、高校野球では無理だとぼくは思うんです。あのときは、県内に八幡商というすごいチームがあった。この八幡商に、春の県大会で7―8で負けた。最後に投げていたのは、3人の中で1番力のあった島脇。島脇が最後、打たれて負けた。だから、夏の決勝は八幡商とやるという想定のもと、この夏はこれで戦うっていう順番も決めてやったわけです」

「もしあの試合で勝っていたら、夏は島脇1人で行きますよ。いい状態で決勝を迎えられるようにして、島脇で行きますよ。準決勝は竹内と清水で行って。でも、負けた。だから1人の投手で八幡商に勝つという、そういう絵は描けなかったわけです」

▷突き抜けるなら1人で

21世紀最初の夏、多賀が率いる近江は3人の豊かな個性を生かし、大優勝旗にあと1勝に迫った。それから20年。全国屈指の強豪相手に1人で立ち向かえる投手が現れた。それが、山田だった。

滋賀・栗東西中時代に見た山田の姿を、多賀は忘れない。大津瀬田ボーイズの夏の練習で、3年生の山田は後輩のために投げ続けていた。

「午前中からずーっと後輩の練習で打撃投手をして、午後からもまたずっと打撃投手で投げていた。3時過ぎまでずっと。後輩のためにね、朝も投げて、また昼からも。何かチームに、まわりにすごい影響力を与える。それは何かというたら、野球が自分のすべてや、みたいなものがみなぎっているんですよね」

「その姿を見たら、自分もあんなふうに、あんな選手になりたいなと、そういう羨望(せんぼう)のまなざしというか、そういう気持ちを抱かせる選手やなと思うんです。同じ世代の、野球大好き少年が、何か引きつけられる。そういうものを持っている子やと思いました」

常総学院に敗れ、涙の京山将弥投手(現DeNA)を見守る加賀監督。選手に寄り添い、引き締まったチームを作ってくる=2016年8月9日

常総学院に敗れ、涙の京山将弥投手(現DeNA)を見守る加賀監督。選手に寄り添い、引き締まったチームを作ってくる=2016年8月9日

仲間のために身を粉にすることをいとわない。大黒柱としての山田の魅力を、多賀は見て取った。マウンドに立つだけで、仲間に勇気を与える。逆に、仲間からも力をもらう。この投手を支えたい一心で、野手は捕れそうにない打球にも体を張る。相手投手に食らいつく。そうやって1戦1戦勝ち進む。それこそが背番号1を背負うエース。チームの軸になれる男だと、多賀は確信した。

事実、山田が進学希望を近江に絞ったというウワサが広まったとき、同学年の中学生からの問い合わせが多賀らのもとに相次いだ。山田と一緒に野球をやりたい、そんな中学生だった。

1957年の創部以来初めて進んだセンバツの決勝で、山田の力にかけてみたかった。気力だけでマウンドに立たせるような、そんな〝美談〟と教え子たちを心中させる気持ちは毛頭なかった。今置かれた状況で立てられる最善の策は何か、その一点を考え続けた。

左足首を痛めた山田を右翼守備に就かせることはできない。山田をベンチに置くということは、エースで4番で主将抜きにチームは大阪桐蔭と向き合うことになる。

「やっぱり監督って、その試合を勝つために作戦を立てるわけで、いろんなことを考えたときにね、もうそれしかない。行くところまで、行けるとこまで行くと」

▷澄んだ瞳 腹は決まった

大阪桐蔭とは昨夏に続き、甲子園2季連続の対戦だった。

昨夏は2回戦で顔を合わせ、山田から3年生エースの岩佐直哉への継投で大阪桐蔭に逆転勝ち。しかし悔し涙にくれた相手は、当代最強と言われる力を取り戻し、圧倒的な強さで決勝まで勝ち進んできた。再戦への流れは「山田が引き寄せたもの」と多賀には思えた。

「本気で日本一を取りたいと思ってうちに来てくれた子でしたから」

父は東邦(愛知)の捕手で、92年夏の甲子園で4強入り。兄は大阪桐蔭から日体大に進んだ。父や兄の母校へのあこがれも、山田にはあった。だが生まれ育った「滋賀で日本一になりたい」気持ちが、上回った。その一念で1度は大阪桐蔭を倒し、また最強のライバルと顔を合わせた。

「日本一に本当に本当に手の届くところまで、現実に近づけてくれた」

山田にかけよう。腹は決まった。

決勝の朝、多賀は山田を呼んだ。

「お前を投げさせるんやったら、頭から行きたい」

山田は大きくうなずいた。

「はい、行けます」

揺るぎない視線だった。澄んだ瞳を見返して、少しでもいいコンディションでマウンドに上げてやりたい思いが胸に募った。せめて1日、もう1日あれば…と雨予報に望みをかけた。

だが、願いはかなわなかった。決勝当日。天候は回復した。午後0時半、プレーボール。初回から大阪桐蔭打線は、山田を捉えた。

▷西谷監督の慧眼「変化球が多くなる」

登板前の投球練習で、いつものストレートを投げられないことを山田は実感した。「変化球でボールを低めに集めることを(捕手の)大橋と話していたのですが…」。

決勝前、ブルペンで話す加賀監督と山田。大阪桐蔭の西谷監督は。異変を見逃さなかった=2022年3月31日

決勝前、ブルペンで話す加賀監督と山田。大阪桐蔭の西谷監督は。異変を見逃さなかった=2022年3月31日

その投球練習を、大阪桐蔭監督の西谷浩一(52)は見ていた。「思い通りに投げていない。変化球が多くなる」。近江バッテリーの苦肉の策は、敵将に読まれていた。運命の3回が来た。

0―2の3回無死一塁。プロ注目の捕手、松尾汐恩(しおん=3年)に左翼ポール際に2ランを運ばれた。球速130キロに届かない今の自分のストレートでは、大阪桐蔭を抑えることはできない。「これ以上、迷惑はかけられない…」。1番つらい決断を、甲子園のマウンドで下した。ベンチにサインを送り、山田は自身の限界を多賀に告げた。

▷594球で降板 背中を追いかける拍手

グラウンドを去っていく背中を、1万2000人の拍手が追いかけた。1回戦から594球を投げ抜き、3回途中4失点で降板する投手へのねぎらいに、敵も味方もなかった。

ベンチに戻った山田は、ゲームセットの瞬間まで声を出し、チームメートを励ました。「自分たちの目標というのは日本一ということで先発を任せていただいたので、やれるところまでは頑張ろうと思っていました」。

決勝戦後、輪になった近江ナイン。ねぎらいの加賀監督は、山田の右肩に左手を添えた

決勝戦後、輪になった近江ナイン。ねぎらいの加賀監督は、山田の右肩に左手を添えた

力を尽くしたセンバツ後、山田は春の大会でマウンドに戻ってきた。近畿大会準決勝で大阪桐蔭と3度目の対戦も、試合中盤で右太もも裏がけいれんし、無念の降板。チームは逆転負けした。対大阪桐蔭の敗戦には、最後までマウンドにいられない悔しさがつきまとう。

高校最後の夏が来る。近江のエース山田としての、集大成の夏。

滋賀から天下を取る夢は続く。負けられない夏が始まる。