【日本ハム週間②あのドラ1の今:江尻慎太郎氏】今がピーク、今からがもっとピーク 目線の先にはいつも和田毅

「あのドラ1の今」。野球好きに響く不朽のテーマです。ビジネスの道を歩む江尻慎太郎氏の今を、書き下ろしで送ります。ケガに屈せず、サイドハンド転向で開花した遅咲き。ユニホームを脱いで一層、ポジティブでいられる原動力は。(敬称略)

ストーリーズ

木下大輔

◆江尻慎太郎(えじり・しんたろう)1977年(昭52)4月30日、宮城県生まれ。仙台二―早大を経て01年ドラフト自由獲得枠で日本ハム入団。10年4月にトレードで横浜(現DeNA)に移籍。12年11月には3対3のトレードでソフトバンクに移籍した。通算12年で28勝20敗1セーブ、53ホールド。防御率4・48。現役時代は身長187センチ、体重78キロ。右投げ右打ち。

オールスターに初出場。第1戦の全セ2番手で力投=2011年7月22日

オールスターに初出場。第1戦の全セ2番手で力投=2011年7月22日

★元プロをマネジメント「AcroBats」

日課は朝の散歩。出演する講演や研修が近くなると、散歩のお供は自分が話している音源だ。江尻慎太郎(45)は歩きながら、反省する。「自分の講演を聞きながら、面白くねぇなとか。自分で聞いて面白くないと、人が聞いて絶対に面白くないと思うので」。

今年は約20本、人前に立って話すという。必ずスマホで録音し、聞き返す。次にやってくる〝今〟に向けて、ブラッシュアップを図る。

現役引退から今年で8年目。現在はソフトバンク球団の子会社「AcroBats(アクロバッツ)」で、引退した元プロ野球選手のマネジメント業務を行う。

事業・戦略・企画担当としてビジネスマンとして働きながら、メディア出演や講演なども続ける。「社員兼専属契約タレントなんです」。

19年9月、同社の設立会見で江尻は「セカンドキャリアという言葉が好きではない」と言った。

「アスリートを引退した人は、ほとんどの場合、自分の人生のピークは現役時代だったと思っていると思うんですよね。僕はそう思いたくない。やっぱり今がピークだし、今からがもっとピークになる。引退後の自分の立場が、アスリートとしてやっていた時に対して『セカンド』じゃないよね、と。そう言った時点で、自分の人生に負けていないか、というのは思います」

★宅建の勉強

14年に現役を引退した。日本ハム、横浜(DeNA)、そして3球団目となったソフトバンクから戦力外通告を受け、ユニホームを脱ぐ決断をすると、球団から新たな仕事として2つの選択肢を提案された。

1つは、アマチュア選手を発掘するスカウト。もう1つは、IT関連製品の製造・流通・販売などを手がける、ソフトバンクグループ「SB C&S」への入社。「自分の活動領域が広がるんではないかなと思って、その1歩目は踏み出しました」と、後者を選択した。

想像していなかった未来だった。

引退を決める前の14年夏。37歳で2軍生活が続き、次のステージを意識せざるを得なかった。漠然と「生きていくために不動産屋になろう」と考えた。

「実は宅建の勉強をしていました。ファームの遠征先に宅建の試験テキストを持ち込んでいて、部屋にこもって勉強していました」

江尻氏が事業計画に盛り込んだフェンウェイ・スポーツ・グループの最高峰、フェンウェイパーク。ボストン・レッドソックスの本拠地だ。サッカープレミアリーグの強豪、リバプールも保有している

江尻氏が事業計画に盛り込んだフェンウェイ・スポーツ・グループの最高峰、フェンウェイパーク。ボストン・レッドソックスの本拠地だ。サッカープレミアリーグの強豪、リバプールも保有している

2軍の神戸遠征の際には、三宮の写真館へ行った。「ふらっと歩いてて、周りに仲間がいないことを確認して、サッと写真館に入って受験用の写真を撮った」。胸騒ぎは現実となり、戦力外通告を受けた。

直後、幸いにも球団から新たな仕事の話をもらった。「生きていけると思った」。宅建は受験直前で取得を止め、導かれるように未知の世界へ飛び込むことを決めた。

38歳の新入社員は、無我夢中で目の前の仕事に取り組んだ。「IT営業マンとして3年間。デジタルマーケティングツールの流通、販売、営業」に従事。同時に会社の許可を得て、プロ野球の解説業なども行う二刀流だった。「ビジネス界にいる時間が長ければ長いほど、野球界で活動している人って本当に素晴らしい、すごく厳しい世界で戦っているなと思った」。

★夢を詰め事業提案

次第に、ある思いが膨らんだ。「引退した選手を輝かせたい」。自身も不安にさいなまれた、アスリートの引退後の生活を支えたいとの思いを、事業提案にしたためた。それが「AcroBats」設立の起点となった。

18年、ソフトバンク球団へ広報として出向。新会社設立のプロジェクトリーダーとの兼務だった。「なかなかつらかったですね、会社立ち上げ時期は」。事業計画を仕上げ、親会社となる球団に新会社設立の承認を得るまでの過程は、四苦八苦した。「(親会社となる球団から)資本金を引っ張るんですから、大変ですよね」。

約1年後の19年春には、球団の太田宏昭代表取締役専務COO兼事業統括本部長から「事業計画に夢を持たせろ。夢がなけりゃ誰もついてこないぞ」とダメ出しされた。「あぁ、それだ」。具体的に突き詰めるほど、夢がない事業計画になっていたことを気付かされた。そして、ビジネスマンとなって最初の上長から教わった、仕事のイロハがフラッシュバックした。

「自分がやりたいことは、全て上の決裁を仰いで、人とお金を配置してもらわなきゃいけないわけです。そのためには、美しいビジョンを描いて、きれいな事業計画を書いて、そこで僕は走りきりますという信頼を勝ち取って、お金を引っ張らないと、何も始まらない。それをウチの上長は『会社を〝だまして〟金を引っ張れ』と表現していました」

日本ハムと仮契約後、安部磯雄碑と並んで。凜とした1枚=2001年11月

日本ハムと仮契約後、安部磯雄碑と並んで。凜とした1枚=2001年11月

どの世界でも、夢がなければ、前へ進み続けることは難しい。人の心をつかむのも、しかり。最後には、熱い思いをぶつけた。

「福岡ソフトバンクホークスグループを、フェンウェイ・スポーツ・グループみたいな世界最大のスポーツグループにするために、僕たちはフェンウェイ・スポーツ・マネジメントのような大きなスポーツマネジメント会社になってホークスグループを支えたい…そんなことを伝えたように思いますね。『大げさな話だ』と周囲は思ったかもしれませんが」もちろん、その言葉に〝ウソ〟はない。情熱がこもった夢を言語化し、人を、会社を動かして「AcroBats」は産声を上げた。

エネルギッシュに人生を歩み続ける原動力がある。

「和田に勝ちたい、和田に勝ちたい…今でも和田に勝ちたいんですよ」

★2浪 慶大断念し早大

運命的に巡り合った早大の1学年後輩、ソフトバンク和田毅の存在が、常に自分を奮い立たせる。

宮城・仙台出身の江尻は県内1の進学校、仙台二のエースとして注目を集めていた。進路希望は「慶応に行きたかった」。高校3年時に、当時の慶大後藤寿彦監督が会いに来てくれた。「わざわざ仙台まで来てくれて。校長室で『ぜひ、ウチに来てほしい』と言われて。どうやって行くのかというと『(受験を)頑張ってください』という話なんですけど」。 猛勉強したが、現役合格はできず。翌年も、さらに翌年も…受けられる範囲で1年に2度ずつ臨むも「慶応に6回、落ちてるんですよ」。2浪の末に慶大進学は諦め、合格した早大へ進学したのが21歳となる98年。人生の大きなターニングポイントとなった。

早大の後輩、和田毅。今も意識する特別な存在=2002年6月1日

早大の後輩、和田毅。今も意識する特別な存在=2002年6月1日

1年秋の早慶戦で完封勝利を挙げ、00年シドニー五輪へ向けた野球日本代表候補にも選出されたが、2年春に右肘を故障。そんな時期に、3歳下の和田が早大野球部にやってきた。「プロに行けたのは、完全に和田のおかげです。僕が肘をケガして、大学3年まで1勝しかしていない状態だったんですけど、その間、和田毅のピッチングをずっと見せつけられて。全てにおいて、かなわない。こんなピッチャーがいるんだ、和田に勝ちたい、和田に勝ちたい…と」

東京6大学野球の奪三振記録を樹立する姿を、間近で見続けた。「今のままですもん。マウンドに上がったら、ほとんど初回は3者三振ですよ」。負けたくない一心で故障を乗り越え、4年時に復活。01年に導入された自由獲得枠制度で日本ハムへの入団が決まった。その1年後に自身と同じ自由枠でソフトバンクへ入団した和田を「ずっと意識しています」。

★まだ悔しい

現役時代から、壮大な夢を追いかけてきたのかもしれない。「何をやったって僕よりできるのに、僕の10倍くらい練習する(笑い)。ぐうの音も出ない」という和田を上回ろうとし続けた13年間。「プロでは一緒にプレーできなかったんですけど、結局、和田です」。巡り巡って現在、同じ球団の枠組みの中で伴走する。

「今もまだ悔しいから、野球以外のフィールドで和田に勝ちたい。だから、絶対に活躍してやる。和田には去年、そう伝えました。そういう気持ちでやっているんだから、現役を辞められたら困るって。僕の人生を、和田毅が支えてくれているので、あと100勝くらいしてもらわないとですね。僕まだ、45歳なので」

だから江尻は夢を追いかけ続け、常に今をキャリアハイにしようと突き進んでいる。

「もっとOBの活動領域を増やしていきたいですし、僕自身もアクロバッツを拡大したいし。もっともっと新しいことを生み出していかなきゃいけないと思う。そのくらいやらないと、和田〝さん〟も納得しないと思います」

その思いにも〝ウソ〟はない。いつか後輩を追い越す日まで、今をトップスピードで走り続ける。