【巨人週間④原監督と日刊スポーツ】創刊記念日に聞いた初掲載の記憶 48年のお付き合いに感謝

1年前、日刊スポーツは創刊75周年を迎えることができました。長くお世話になっている巨人の原監督が、メッセージを寄せてくれました。約半世紀前、15歳の辰徳少年を初めて取り上げたのは…弊紙だったそう。当時の紙面とともに振り返ります。監督、いつもありがとうございます!(2021年3月7日掲載。所属、年齢、体裁などは当時)

傑作選

軍司貞則、浜本卓也

原監督の日刊スポーツ初登場は、東海大相模1年生当時の1974年6月26日。2面の3番手扱い、通称「ヘソ」での掲載でした

原監督の日刊スポーツ初登場は、東海大相模1年生当時の1974年6月26日。2面の3番手扱い、通称「ヘソ」での掲載でした

東海へ夢再び〝父子鷹〟

「あれで一年生ですか。あの態度といい落ち付き方といい、どう見ても一年生には見えませんね」

銚子商斎藤監督は目を丸くした。百八十㌢、七十七㌔の大柄な体。関東のビッグ3銚子商土屋の外角球を右方向へ逆らわずに打つ見事なバッティング。「やっぱり原さんの息子だけはあるなあ」。銚子商―東海大相模のオープン戦を見学していた銚子っ子からはタメ息がもれた。

原辰徳君、十五歳。一年生ながら部員八十人を誇る東海大相模の三塁手で四番打者。父親の原貢監督は四十年三池工、四十五年東海大相模といずれも夏の甲子園を優勝させた。特に打者を育成することに定評があり、苑田(広島)猿渡、相本(日本ハム)らをプロに送り込んでいる。その長男が達徳君。六月中旬まで二十三試合のオープン戦で4割7分をマークしている〝サラブレッド〟。

プロでも荒川親子(ヤクルト)の例があるが、原親子はクール。辰徳君の入部に際しては親子の縁を一時的に切った。「監督はどこでも好きな高校で野球をやれといってくれたんです。それでよそのチームを探したんですが、ウチの監督が一番良い指導者と思ったので東海大相模にきました」と辰徳君。学校から二十分ほどの相模原市内の実家には「用事があって一度行っただけ」だそうだ。

公使にわたって父親を「監督」と呼ぶ。こんな息子に監督貢さんは「まだまだだねえ。体が大きいばっかりで力がない。それに五月上旬にカゼをひいて体重が七㌔も減ったので本調子ではないんですよ。まあプロに行くには高校在学中、5割のアベレージを残し、打てるポイントを二つ持たなくちゃいかん。これからですよ」と素っ気ない。

県高野連関係者は「一年生であれだけ打てるだから将来は大変でしょうね」と語ってマークしており、親子コンビで原監督は三度目の全国制覇をねらっている。

★「うれしくてね」

物事には、何事にも始まりがある。

1946年(昭21)の3月6日、日刊スポーツ新聞社が日本初のスポーツ新聞として産声を上げた。そこから75年。日刊スポーツに携わる多くの人間が日々、新聞作りに尽力してきた。

記者は多くの取材対象者と言葉をかわし、思いをぶつけ、時には主張しあい、さまざまな物語を伝えてきた。一流と呼ばれる選手は、いい時だけでなく、うまくいかなかった時でさえ何度も取り上げられ、人々の心に刻まれる〝ヒーロー〟や〝ヒロイン〟になる。

巨人の原辰徳監督(62)も、その1人だ。

プロ入り前から注目を浴び、巨人入団後の現役生活に、引退後の指導者人生。何度も日刊スポーツの紙面を華やかに飾ってくれた。原監督の名前や顔を知らない人は、日本中にほぼいないと言っていいだろう。

初めて新聞に載ったのは、いつなのだろう―。6日の試合前、遠い記憶の糸をたどる困難が予想される失礼を承知で、取材した。新聞に載った「始まりの日」は、原監督の記憶にしっかりと刻まれていた。

メディアへの対応はいつも協力的。先にファンがいることを誰よりも理解している=2019年10月1日

メディアへの対応はいつも協力的。先にファンがいることを誰よりも理解している=2019年10月1日

原監督最初に新聞に出たのが日刊スポーツだった。高校時代に。当時、日刊に軍司記者(軍司貞則記者)がいて。1面があって(ページを)開けるでしょ、そこのこのくらいの記事。軍司さんが写真を撮ってくれた。〝父子鷹〟って。

ページをめくるジェスチャーをすると、親指と人さし指の間隔を10センチほど開けた。74年6月26日付の日刊スポーツ。2面に王貞治氏が「行くぞ ! 甲子園」と題字を記した企画があり、「東海へ 夢再び〝父子鷹〟 原監督と4番・辰徳君」と見出しの立った囲み記事が、確かにあった。

原監督うちの父は有名でしたし、その息子で1年生で、銚子商業と練習試合をして、それを書いてくださった。うれしくてね。新聞に出たことが。その前に地元の新聞にね、ちょこっと名前が出た。三塁手には新1年生の原が入りそうだ、って。でも、日刊スポーツというものが最初で、すごく覚えていますね。

★いい人ばかりじゃ…受け止める

何千回、何万回、いやそれ以上も「原辰徳」の記事は新聞に載り、読者の喜びや活力になってきた。そんな野球人・原辰徳の〝出発点〟を、47年をへた今でもしっかりと覚えていた。

原監督にとって、スポーツ新聞記者とは何か―。そう尋ねると、取材を受けた記者の方々の顔を浮かべているかのように、穏やかな笑みを浮かべながら言葉をつむいだ。

原監督アマチュアの時は、新聞記者というのはいい人だった。アマチュアの(担当)記者は、何となく育ててくれた感じがある。お兄ちゃんであり、お父さんであり、教育的だった。プロに入っていい人ばかりじゃないんだなと。正しいことをやったって、なかなかそうは受け取らない。

プロ1年目、忘れられない出来事がある。春季キャンプインの直前、日刊スポーツのアマチュア担当から巨人担当になった記者に「(厳しいことを)書かれるかもしれないけど気にしないで、負けないで」と、声を掛けられた。

結果が出なければ、目にしたくない記事も書かれるのが、プロの世界。すでに理解していた原監督は、その年のキャンプ初のシート打撃で場外弾を放ち、実力を示した。プレーで、言葉で、考えや思いを記者に託して届けてきた。

今季、ドラフトで巨人には育成選手も含め19人もの新入団選手が加わった。何人が創刊76年目の紙面を飾ることになるのだろうか。

新型コロナの影響で、直接取材ができる機会は少ない。でも、それは言い訳にならない。先人が築きあげてきた思いを無駄にせず、五感を研ぎ澄ましながら取材に励み、バトンをつないでいく―。創刊75周年の節目に原監督の〝スタート地点〟に触れ、足もとを再確認した。