世界選手権3連覇中のネーサン・チェン(22=米国)が、111・71点の自己ベストをたたきだし、SP首位となった。2回の4回転ジャンプを決めた会心の出来で、覇権を争う羽生結弦(27)が持つSP世界最高点(111・82点)に0・11点差に肉薄。18年平昌五輪では失敗が続く悪夢となったSPを最高の形で乗り切り、8日からの個人戦へ勢いをつけた。

【フィギュア】男子SP終了 ネーサン・チェン自己ベストで米国が首位発進 日本2位>>

まだ喜ぶのは早い。そう自分に言い聞かせるように、フィニッシュポーズを解いても、チェンの表情は引き締まったままだった。団体戦の仲間の元へ向かうとようやくほほ笑んだが、今大会にかける決意がすけた。「まだまだ、これからです。もちろん、本当にうれしい。自分は感情をあまり表に出さない人間ですが、心の底からうれしいです」。そう、これだけで4年前の絶望を払拭(ふっしょく)したとは言えない。

18年の平昌五輪。同じ団体のSPで初の五輪リンクに立ったが、後半の4回転が2回転になるなど4位。さらなる苦難が待っていたのは個人戦のSPだった。4回転の転倒など3度のジャンプ全てでミスして17位。日本勢のライバルとされながら、その時点で金メダルは厳しくなった。フリーでは全体1位の演技で驚異の復活を遂げて5位も、苦さだけが残った。

雪辱を始める日がきた。黒ジャケットに身を包み、冒頭の4回転フリップ、中盤のトリプルアクセル(3回転半)、後半の4回転ルッツ-3回転トーループを決めきった。「ラ・ボエーム」は2季前にも使用し、自己記録を作った。再びの勝負曲に表現面での成長も加えた。「あの過ちから学びました。あれがなければ、いまここにはいないと思ってます」。過去最高の自分を母の生まれ故郷でもある北京のリンクに刻んだ。

父も同地に長く住んでから渡米した経緯がある。米国で生を受けたが、「10歳の時に来た記憶があるよ。北京動物園に行ったんだ」と振り返る。会場の首都体育館のすぐ近くで動物を見た記憶は鮮明だ。

試合が近づくにつれ、3連覇を狙う羽生について聞かれることも増えた。その都度、丁寧に説明した。「僕はライバル関係とは言えない。彼はいつもフィギュアスケート界の象徴的な存在で、このスポーツを前進させてきた。一緒に滑る機会があるのは、本当に素晴らしいこと」。敬意とともに、大会に挑む気持ちを語っていた。

8日には個人戦でのSPが待つ。4年前の自分を超えるには、その演技こそが問われる。【阿部健吾】

 

▽ネーサン・チェンのオリンピック

◆18年平昌五輪VTR GPシリーズ2戦2勝、GPファイナル制覇、全米選手権優勝とシーズン無敗で臨んだ初の五輪。団体のSPでジャンプを失敗すると、個人のSPでも全てのジャンプを失敗。SP17位発進とメダルは絶望的状況となった。フリーでは4回転ジャンプを6本挑戦して5本成功。驚異的な演技を披露し、優勝した羽生を超えるフリー1位の215・08点を出して、合計297・35点で5位に食い込んだ。

 

▽ネーサン・チェンという男

◆ルーツ 両親が中国で生まれ、20代で米国に移住。5人きょうだいの末っ子として99年5月5日、ユタ州ソルトレークシティーで生まれた。

◆バレエ 7歳でソルトレークシティーのバレエ団に入団。週6日レッスンを6年以上続けた。回転力や脚を強化できたが、最もフィギュアスケートに生きたのは表現力。劇団で幼少期から多くの観客の前で舞台に立ち、見ている人に肉体で訴える術を学んだ。ジャンプだけではない洗練された動きは、バレエスタジオにルーツをたどれる。

◆体操 10代半ばまで7年間、体操にも打ち込み、州および国レベルの競技会にも出場していた。「ジャンプやスピンは体操で養った空間認識力が役に立っていると思う」と自負。軸のぶれない、しっかりした滑りにつながる。

◆事件 17年1月、ツイッター上で「#ネイサン事件です」のハッシュタグがあふれた。90年のテレビドラマ「HOTEL」の名せりふ「姉さん、事件です」をもじった言葉は、同月の全米選手権でISU非公認ながら、フリーで5回の4回転を完璧に成功させたため。一気に日本勢の好敵手として注目されるように。