新型コロナウイルスによって、大きく運命が変わろうとしている新星が体操界に登場した。13日に閉幕した全日本選手権(高崎アリーナ)の女子個人総合で3位に入った相馬生(うい=朝日生命ク)。初出場だった15歳は、1歳で渡米し、米国の次代の五輪選手として期待された逸材。東京五輪の1年延期による年齢制限の変更で出場が可能になり、米国から日本へ海を渡り、いま来夏の日の丸をつけることを思い描く。運命が大きく変わった15歳のルーツ、いまを聞いた。

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「う、い、う、い」。

高崎で試合を終えてから3日後、相馬は顔を上に向けて、自分の名前をつぶやきながら、口を大きく動かしていた。

初出場で3位。日本代表関係者も驚く、唐突な「日本デビュー」を終えたが、本人が気にしたのは「顔が丸い…。あご、とかね…」。実際はそんなことはないが…。「う、い」は小顔のストレッチだった。そんなしぐさがチャーミングな15歳の運命がいま、一気に動いている。

日本では無名だったのも仕方ない。東京都で生まれ、1歳でハワイへ移住した。体操を始めたきっかけは、木登り。兄のサッカーを応援にいったが、目を離すと20フィート(6メートル)の高さの木の上をスイスイ飛び移る。「高いところが楽しかった」。「モンキー」と仲間から驚かれる身軽さに、両親の友人が体操教室に連れていったのが始まりだった。6歳だった。

なぜ「友人」だったかというと…。「私たちは『出稼ぎ』で日本にいっている間だったんです」と振り返るのは母の石川香さん。銀座でクラブなどを経営し、テレビ番組でも「ブスママ」として知られた名物ママが、相馬の「ママ」。「木登りがすごいって、知らない間に体操やってたんです! でも今となっては感謝ですね」。

週1回の遊び感覚から、競技者として本格化したのは8歳。コツコツタイプの努力家は、天性の運動能力を支えに、めきめき上達。1日8時間以上の地道な練習の成果が実ったのは16年。米国本土で開かれた米国協会によるセレクションに参加し、300人の若年層の候補選手の中から、唯一「Developmental Team」に選ばれた。

米国の育成システムはピラミッド構造。テキサス州の育成施設で5階層に分けて強化している。自費で合宿に参加できる「キャンプB」のカテゴリーに始まり、上にいくほど狭き門。「Developmental Team」はその頂点で、16年度で選ばれたのは相馬だけだった。

指名したのは、米国女子代表のリューキン監督だった。旧ソ連代表で88年ソウル五輪男子団体総合金、鉄棒金、個人総合銀など。米国へ移住し、指導者として娘ナスティアを08年北京五輪個人総合金などに導いた、体操界のレジェンド。「誰だ、あの子は?」。ハワイから来た少女の動きに、白羽の矢を立てた。

その後は定期的にハワイから本土へ合宿にいく日々。16年7月、より良い練習環境のために、サンフランシスコに1人で向かった。17年には「U・SクラシックHOPES(10~12歳)部門」で全米王者に。リオ五輪4冠のバイルスなども制した、金メダルへの登竜門を制した。香さんら一家も、18年にハワイから移住を決め、五輪を目指してきた。

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「えっ、出れるの。ラッキー!」。

相馬が跳び上がったのは、今年6月。3月24日に東京五輪の1年延期が決まり、6月に国際体操連盟(FIG)が年齢制限の改正を発表した。女子は05年12月31日までに生まれていることに。1年延びたことで、同年2月28日生まれだった相馬に資格が生まれた。

米国代表として、パリ五輪を目指していた。代表に必要な市民権も数年かけて得る計画で、米国協会も動いていた。21年も米国代表で…、としたかったが「市民権を取るためには1年半かかると」(母香さん)。間に合わない。悩む時、ちょうどコロナ禍の影響で、母が経営する銀座の店舗も大打撃を受けていた。出稼ぎではもたない。日本へ帰国すると決めた両親とともに、相馬も海を渡ることになった。

つてを頼り、都内の朝日生命クに練習環境を得た。練習量は減り、米国の仲間との急な別れを割り切れない。「毎日泣いていた」とつらい毎日もあった。ただ、家族は新たな目標、日本代表として21年東京五輪へ、全力でサポートしてくれていた。

そして12月、迎えた高崎での日本一決定戦。予選は5位。突然の躍進は、決勝でもとどまらない。村上茉愛ら国内トップ選手と同じ組でも、堂々とした演技を並べた。「跳馬は悪かったからさみしかったけど、バー(段違い平行棒)が良くてうれしかった。床はもっと良くできると思った」。床運動ではF難度、その他もE難度を実施し、国内トップに肉薄した。「驚いてます。うれしかった。なると思わなかったので」と目を丸くした。

米国の仲間からは、いまも「帰ってきて」とラブコールが来る。友人もいない日本で、寂しさが募るのも事実。「日本代表として頑張りたい」とは大きな声で言いにくいのが正直な気持ち。ただ、「ん~、(五輪へは)楽しんでベストは尽くしたいかな」とも3位という結果で少し前へ進んでいるようだった。

迎える21年。

「う、い!、う、い!」

五輪会場でそんな声援が聞こえたら、目の前ではきっと、生き生きと躍動しているだろう。【阿部健吾】

◆相馬生(そうま・うい)2005年(平17)2月28日、東京都生まれ。あこがれは08年北京五輪女子個人総合金のナスティア・リューキン。得意種目は段違い平行棒、平均台。身長156センチ、体重49キロ。

◆女子の五輪代表選考 東京五輪の代表枠は最大で6人。団体枠の4人は確保しており、来春の3大会(全日本選手権、NHK杯、全日本種目別選手権)で選考される。他に個人枠があり、来春のW杯で個人総合、種目別での枠獲得の可能性がある。年齢制限は延期にともない、04年12月31日から05年12月31日以前に生まれた選手に改正された。