東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)が延期に伴い2度目の五輪イヤーとなる新春インタビューに応じた。新型コロナウイルスは感染が再拡大し一寸先は闇だが大会開催について「中止にはできない」と断言した。今春、政府から無観客の指示が下ったとしても「工夫してやるべきだ」と語った。【取材・構成=三須一紀、木下淳】

-感染が再拡大している。政府は来春に観客入場制限の有無を決めるとしているが具体的にはいつか

「3~5月。最終的には5月でしょうが、それより前かもしれない」

-感染状況次第では最悪、無観客でも開催すべきか

「もう中止はできないから、たとえ無観客という指示が出たとしても工夫してやるべきだ。昨年1年間、無観客のイベントや無出社でテレワークするなど日本は工夫してやってきた。どんな苦難があっても乗り越えられる。明日の箱根駅伝に注目している。無観客で開催するというが、沿道の観衆をどうするのか」

-コロナ対策の出来具合は

「国、東京都、組織委で細かいところまで徹底的に対策が練られた」

-再延期はないか

「できるはずがないじゃないですか」

-会長は11月、コロナ対策の観点から開会式の入場行進の人員削減にこだわるとした

「1番問題なのは行進前の集合場所。会場内に集まる。数時間も待つとなると濃厚接触がすごい。これを心配している」

-何か策は

「選手村をバスで出る時間を調整したい。一斉に出るのではなく国立競技場周辺の待機時間をせいぜい30分程度にできるよう、新幹線並みのダイヤを組みたい。日本人が得意な分野だ」

-入場行進する選手、役員などの人員を75%削減する案はどうなるのか

「まだ決まっていない」

-開会式の時間短縮は

「個人的には半分の2時間で良いと思っている。しかしIOCが反対。テレビ局が枠を買っている。時間を短縮すると契約違反で違約金が発生する。それを日本が払ってくれとなる恐れがある。それ以上の議論をすると深みにはまるから、私はそこは引っ込めて、他の案を考えようと言った」

-何か良いアイデアは

「4カ所の入場口から選手団を入れようと考えたがIOCから反対された。読者の皆さんもいろいろ考えているかもしれないが、それなりに反対論がある。ただIOCが選手村の滞在を競技前5日間、競技後は2日間と決めた。これでだいぶ、開閉会式の参加者数が減るのでは」

-来春、無観客と判断されたら900億円のチケット収入が入らない。その想定はあるか

「それはしていない。現実に野球やサッカーは知恵を出して有観客で実施している」

-開閉会式演出チームを解散し、新たな総合統括に広告クリエーティブディレクターの佐々木宏氏を起用した

「コロナ前の企画は今の世情にあまり合わない。1年前イベントに登場した(競泳の)池江璃花子選手の心境に立って、もう1度つくり直そうとなった。また7人がそろって企画し直すと時間がかかる。そこで佐々木さんをヘッドにした」

-延期した史上初の五輪。その開会式は全世界に大きなメッセージを発することになる。どういう式典にしたいか

「19年11月、ラグビーW杯で日本、世界中が沸いた。そのムードのまま五輪に突入できるかと思ったが今年2、3月、コロナで沈んだ。日本人、五輪関係者の気持ちの浮き沈みを表現し『あの頃、そうだったよね』と世界中の人が振り返られるような式典にしてほしい。その暗いトンネルから1点の明かりが見えてきて、それがバーッと広がったところが国立競技場だった、そういうイメージを浮かべている」

-もう少し聞きたい

「素人の私が監督だったらそうしたいなと。真っ暗な中の1点に光を当てて、そこ目がけて日本のアニメキャラクターが走って集まる。そこに青空や海が広がった後、国立競技場があるという流れ。あくまでも個人的なイメージです」

-コロナに打ち勝った後の最終聖火ランナーのイメージは会長の中にあるか

「ある。苦難に打ち勝って頑張っている人はたくさんいる。日本人が見て共感を覚える人、世界もなるほどと思える人になると考えている」

-一般の医療従事者を開会式に招く案はあるか

「いいこと言うなあ。医師、看護師をはじめ医療関係者の方にどうやって五輪を一緒に喜んでもらえるか、多くの国民の皆さんから評価してもらえるかが大切」

-最後に、メイン会場である国立競技場の東京大会後について聞きたい。閣議了解で決まっている球技専用化をやめて、陸上競技場として残すのか

「五輪を開催した陸上トラックをはがしてサッカー場、ラグビー場にしたら後世に笑われる。一昨年の春ごろ(前日本陸連会長の)河野洋平さんを連れて、スポーツ議連の麻生太郎会長を訪ねた。そこで『確かにその通りだ』となった。国立は陸上競技場として存続していくことで態勢はほぼ決まっている」

◆森喜朗(もり・よしろう)1937年(昭12)7月14日、石川県根上町(現能美市)生まれ。早大卒。産経新聞社、議員秘書を経て69年衆院選で初当選。83年第2次中曽根内閣で文部相として初入閣した。00~01年に首相。衆院議員を14期務め、12年に国会議員から引退した。東京五輪招致委の評議会議長を務めた後、14年1月、組織委会長に就任した。