東京オリンピック(五輪)で4大会連続出場となる、16年リオデジャネイロ五輪卓球銀メダリストの水谷隼(30=木下グループ)が、「五輪延期」ついて電話インタビューに応じた第2回は「延期との向き合い方」。五輪後に第一線からの引退を表明しているベテランにとって、短いとは言えない1年。体力の減退と闘いながら若手との戦い方への順応や用具改善に当てるなど、前向きに気持ちを保とうとしていた。

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日本卓球協会の代表合宿は4日午前、急きょ解散した。19日まで組まれていたが、ナショナルトレーニングセンターが立地する東京で新型コロナウイルスの感染者が急増し、緊急事態宣言が出る可能性を見越して、早めの対応を取った。

五輪代表は各自、地元に帰るなど、感染が拡大する首都を一時、離れた。一方で妻子がいる水谷は、自宅がある都内にとどまった。

水谷 トレセンも(母校の)明治大学も所属先も今は練習場として使えない。今は家で筋トレ中心のメニュー。厳しい状況です。

以前から東京五輪後に第一線から退くと明言していたベテランにとって、体力の衰えは避けられない。先の代表合宿で行った体力測定では過去10年間で最低の結果だった。

水谷 確かに体力は落ちている。昨年11月のW杯では腰をケガし、今年3月まではその影響もあり、筋トレは控えたから体脂肪率も4%増えた。

だからこそ延期期間を、自分史上の底辺から金メダルを目指す、長い助走路と捉えることにした。その1つとして最近、ラケットのグリップを「ストレート」から「フレア」に替えた。今主流の「高速卓球」に順応するため、フォアハンドとバックハンドを切り替える際、グリップを握り直す必要がない「フレア」を導入した。

目の不調にも余裕を持って向き合える。卓球コートを囲むLED看板の光がどうしても水谷の目に合わず、白球とその光が同化してボールを見失う悩みを長い間抱えてきたため、サングラスやコンタクトなど試行錯誤してきた。今は「目薬をさしながら裸眼でプレーする方向で考えている」と話すが、延期により治療に費やせる時間は増える。

前向きに気持ちを切り替える一方で、試合ができない問題は解決しない。Tリーグファイナルや世界選手権団体戦、ジャパンオープンが延期。世界選手権は新たに9、10月に開催すると国際卓球連盟が発表したが、時期尚早と見る声も少なくない。

水谷 試合感覚は、練習試合をいくらやっても戻らない。観客がいてこその試合。新型コロナが落ち着いたら、数十人でも良いから観客を入れて練習試合をするのも良いと思う。実戦に近い緊張感が持てる。

一種のファンサービスにもなるアイデアに、水谷らしさがにじみ出た。

緊急事態宣言の中、不要不急でなければ外出できない現状に自身のツイッターで、家でもできる「卓球リフティング」という練習方法もアップしている。

ラケットの面、縁、グリップとあらゆる場所を使い、ボールを落とさず、はじき続ける。水谷自身は約300回の記録を持つ。手の感覚の繊細さが求められる卓球競技において、卓球台がなくてもできる手軽な練習法だ。

選手たちは今、インターネット上に動画を投稿し、メッセージを発信し続けている。しかし、心のどこかに無力感がある。

水谷 医師でも政治家でもないアスリートは「今、何ができる?」と言われても何もできない。我々は自分のプレーで皆さんを元気づけることしかない。

感染拡大が収まらない新型コロナだが終息した先に、活躍の場が待っている。

水谷 五輪を開催するには観客、選手、誰しもの安全が確保されることが必要。今は皆さんとともに安静にすること。そして五輪へ、万全の準備をしたい。

今はただ、来夏までの終息を信じ、1歩ずつ歩み続けるしかない。【三須一紀】(おわり)

◆水谷隼(みずたに・じゅん)1989年(平元)6月9日、静岡県磐田市生まれ。5歳から父信雄さんが代表を務める豊田町スポーツ少年団で競技を始め、青森山田中-青森山田高-明大。07年全日本選手権シングルスを17歳7カ月で当時、史上最年少制覇。08年北京、12年ロンドン五輪出場。16年リオ五輪ではシングルスで男女を通じて日本人初のメダル(銅)を獲得し、男子団体でも銀メダルに輝いた。172センチ、63キロ。家族は妻、長女。