【右投げ左打ちの功罪〈10〉】右/右の強打者には致命的…圧縮バットの使用禁止

打撃を極めた名球会打者たち。右打ちと左打ちの内訳を調べてみると…バットの歴史に端を発した野球観の変化が、深い影響を与えています。

その他野球

大島康徳と秋山幸二だけ 魔の15年間

日本の球界史を見てみると、1940年代生まれと1950年代生まれの間が、年代別にみた「転換期」と言っていいだろう。

圧倒的だった右打者の全盛期時代が急激に陰り、右投げ左打ちの好打者が増え始める年代だった。

「なぜなのか? 」を考えていく上で、40年代生まれと50年代生まれの打者にどのような違いがあったかを検証してみよう。

まず、年代別の違いを明確にするため、名球会入りした打者の左右の比率を出してみた。

※谷沢健一氏(47年生まれ、左投げ左打ち)は途中退会し、落合博満氏(53年生まれ、右投げ右打ち)は入会していない。

極端に数が少なく、目立ってしまうのは50年代生まれで、右打者の大島康徳氏と右投げ左打ちの新井宏昌氏の2人だけ。40年代が16人もいるのに対し、大幅に減少している。

60年代生まれは8人いるが、5年間ずつ半分に区切ると、前半の64年生まれまでは駒田徳広氏と秋山幸二氏の2人(ともに62年生まれ)。後半の5年間では6人も入会している。

70年代生まれは名球会員で最多の19人。50年代生まれから64年生まれまでの15年間で、右打者で名球会しているのは大島氏と秋山氏の2人だけしかいない。右打者にとっては「魔の15年間」になっている。

1985年10月、日本シリーズ阪神戦での西武秋山幸二の打撃フォーム

1985年10月、日本シリーズ阪神戦での西武秋山幸二の打撃フォーム

ただ、この15年間の低迷は右打者だけでない。右投げ左打ちも1人で、左投げ左打ちも1人。低迷した一番の要因として、圧縮バットの使用禁止が挙げられるのではないだろうか。

明確な年度は不明だが、飛距離が出やすいとされる圧縮バットが使われ始めたのは50年代の後半頃からだといわれている。

80年のシーズン終了時に禁止された。40年代生まれの打者は、全盛期の長い期間で圧縮バットを使用できるメリットがあった。

逆に圧縮バットが使用できる期間が短かったのが、50年代生まれの打者。プロ入り後に使っていたバットが途中から使用禁止になるのだから、打撃を崩す打者も多かっただろう。全体的な打者レベルの低下につながったと考えられる。

特に長打力が武器になる右投げ右打ちの打者にとっては致命傷。強打の右打者が減り、俊足を生かす右投げ左打ちが増える要因につながった。

2020年3月、試合開始前、グラウンドで巨人の練習を見守る篠塚和典氏

2020年3月、試合開始前、グラウンドで巨人の練習を見守る篠塚和典氏

日刊スポーツ評論家・篠塚和典氏(57年生まれ、右投げ左打ち)プロ入り4年目か5年目で圧縮バットは使えなくなった。でも個人的には、バットをしならせて打てる方がよかった。圧縮バットは、ホームランを打たなきゃいけないようなバッターには、影響があったかもしれないね。それにこの頃は、足の速い右打者を左に転向させることが増えた時代だった。俺は覚えてないんだけど、兄貴がバッターは一塁に近い方が有利って聞いてきて、物心がついたときには左で打っていたんだけどね。

プロを中心とした野球報道が専門。取材歴は30年を超える。現在は主に評論家と向き合う遊軍。
投球や打撃のフォームを分析する企画「解体新書」の構成担当を務める。