恩に殉じた25歳ラガーは引退を選んだ 山田大生、悔いなき人生を歩む

今から7年前、無名の高校生ラガーがプロになった。花園は遠く、代表歴もない。拾ってくれたそのチームはこの春、廃部になった。将来への不安、葛藤。彼は移籍の道を探すことをせず、25歳で引退を決めた。

ラグビー

山田大生の愛車は1989年製フォルクスワーゲン・ヴァナゴン(本人提供)

山田大生の愛車は1989年製フォルクスワーゲン・ヴァナゴン(本人提供)

廃部が決まったサニックス

これまで何度も駆け抜けてきた道が、目の前に広がった。

CTBからの大きな飛ばしパスを受ける。

右のタッチライン際でボールを受けた宗像サニックスブルースのWTB山田大生(ひろき、25)は、インゴールまで走りきると右手でボールを置いた。

4月9日、広島・BMWスタジアムであったリーグワン3部・最終節の中国電力レッドレグリオンズ戦。

後半34分に挙げた得点が、ラグビー人生最後のトライになった。

「18歳の時から無名の自分を応援してくれたファンの方がいて、最後は感謝の思いで戦っていました。

チームがなくなってしまうことが分かってから、プロでやっていく不安があった。

九州では前の年にコカ・コーラが廃部になっていますし。

もし違うチームを探してあと2~3年はプロでやれても、また29や30歳になって職を失うのが怖かった」

トップリーグ時代、サントリー戦で突破を図る山田大生(本人提供)

トップリーグ時代、サントリー戦で突破を図る山田大生(本人提供)

チームから今季限りでの活動休止を告げられたのは、2月中旬のことだった。

今季から新リーグの「リーグワン」が開幕。

3部からのスタートになった宗像は、5年計画での1部昇格という具体的な目標を掲げて動きだした矢先の出来事だった。

混乱の中、ほとんどの選手が来季の移籍先を探す一方で、彼はユニホームを脱ぐ決断をする。

「サニックス(宗像)に入っていなかったら、今の自分はないです。平凡な毎日でどんな生活をしていたかも分からない。

プロとして拾ってもらえるような選手ではなかったですし、そんな自分をかわいがってくれて、成長させてくれた」

1996年(平8)5月17日、双子の弟として生まれた。

四人姉弟の末っ子。小学生の頃はラグビーと野球を掛け持ちし、双子の兄・真生(まさき)とバッテリーを組んだ。

福岡・城南中学へ進むと兄はラグビー、速球派の投手だった弟は糸島ボーイズで野球と別の道を歩んだ。

お山の大将だった弟は中学2年になる頃、遊びに走るようになる。

すると、ラグビー部の監督が自宅に訪ねて来るようになった。

「すごく生意気な中学生でした。

一度は断ったんですけど、何度も家に来て親と話をしてくれた。

熱い先生で、それならまたラグビーをやろうと思った」

中3の春、入部してすぐに鎖骨を骨折。2カ月後に大きな大会を控えていた。

2年間、ラグビーから離れていたにもかかわらず城南中ラグビー部の辻田監督はレギュラーで起用してくれた。

その恩に報いるため、練習が終わってからも1人で走り込みを続け、痛めた肩をかばいながら大会に出場した。

九州大会を制して臨んだ全国大会でベスト4進出。

編集委員

益子浩一Koichi Mashiko

Ibaraki

茨城県日立市生まれ。京都産業大から2000年大阪本社に入社。
3年間の整理部(内勤)生活を経て2003年にプロ野球阪神タイガース担当。記者1年目で星野阪神の18年ぶりリーグ制覇の現場に居合わせた。
2004年からサッカーとラグビーを担当。サッカーの日本代表担当として本田圭佑、香川真司、大久保嘉人らを長く追いかけ、W杯は2010年南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、ラグビーW杯はカーワンジャパンの2011年ニュージーランド大会を現地で取材。2017年からゴルフ担当で渋野日向子、河本結と力(りき)の姉弟はアマチュアの頃から取材した。2019年末から報道部デスク。
大久保嘉人氏の自伝「情熱を貫く」(朝日新聞出版)を編集協力、著書に「伏見工業伝説」(文芸春秋)がある。