【ブルーペナント〈10〉上編】鈴木淳之介「あいつジダンじゃん」高2コロナ禍の衝撃

「ブルーペナント」。

その存在を知っている人はどれほどいるでしょうか。

サッカー日本代表選手が初めて国際Aマッチに出場した際に「育成年代に特にお世話になった指導者を申告」し、記念となるペナントを作成して贈るものです。

日本サッカー協会(JFA)が「育成年代の指導者への敬意として」行っている日本代表・育成指導者表彰制度。

今回は6月10日に行われた26年ワールドカップ(W杯)北中米大会アジア最終予選のインドネシア戦で日本代表デビューを果たしたDF鈴木淳之介(22=コペンハーゲン)がブルーペナントを送る手続きをした(現物は未着)という、帝京大可児高(岐阜)の仲井正剛監督(46)に話を聞きました。10月14日のブラジル戦で驚異的なパフォーマンスで日本の初勝利に貢献し、岐阜出身の選手としては初となるW杯本大会出場も現実味を帯びてきた22歳は、コロナ禍もあった高校時代にどんな成長を遂げたのか。鈴木自身が「自分の今のプレースタイルがしっかり固まった時期。いろんな経験をさせてもらったし、非常に濃い3年間だった」と振り返る当時を知るため、岐阜・可児市の帝京大可児高を訪れました。

サッカー

◆鈴木淳之介(すずき・じゅんのすけ)2003年(平15)7月12日、岐阜・各務原市生まれ。F.C.DIVINEでサッカーを始める。岐阜VAMOSから帝京大可児高に進み、高2の12月に湘南ベルマーレ加入内定。高2と高3で高校選手権に出場し、優秀選手に選出。22年から湘南でプレーし、25年6月のW杯アジア最終予選で代表デビュー。25年夏にコペンハーゲン(デンマーク)へ完全移籍。国際Aマッチ4試合出場無得点。180センチ78キロ。

◆仲井正剛(なかい・せいごう)1979年(昭54)8月6日、岐阜市生まれ。1期生だった岐阜VAMOSで全国制覇。桐蔭学園ではインターハイ出場し、阪南大では総理大臣杯初優勝に貢献した。卒業後は一般企業での勤務を経て、スポーツクラブやスイミングスクール事業のコパンに入社。サッカー事業を担当し、帝京大可児と提携。06年に帝京大可児高の監督に就任し、同年に高校選手権初出場に導いた。12年~18年は中部大監督。19年から帝京大可児に復帰し、同年~25年まで7年連続で高校選手権出場。現在はコパンのサッカー事業部で部長を務める。主な教え子はFW三島頌平(J2熊本)、MF杉本太郎(J2徳島)、DF鈴木淳之介(コペンハーゲン)。B級ライセンス保有。

帝京大可児の仲井正剛監督の下「濃い3年間」

鈴木淳之介が通った帝京大可児高

鈴木淳之介が通った帝京大可児高

敷地内の長い上り坂の先に現れた校舎からは、今や鈴木がその学校を代表する存在であることが伝わってきた。

外壁には大舞台で活躍する鈴木の日本代表選出を祝うたれ幕が掲げられ、校舎に1歩入れば、全国制覇経験のある中学サッカー部のトロフィーや7大会連続で高校選手権に出場している高校サッカー部の賞状が並ぶ中に、湘南ベルマーレ時代の鈴木のサイン入りユニホームが飾られている。

過去にJリーガーやプロ野球選手も輩出している同校の中でも、最も注目されているOBが鈴木のようだ。

高校3年間、監督として鈴木を指導した仲井正剛監督は、デンマークのクラブでプレーし、日本代表のコアメンバーにも近づいている教え子の活躍を、自分のことのように喜びながら見守っている。

鈴木の代表デビュー戦となった今年6月のインドネシア戦はパナスタで現地観戦したといい「感慨深かったですね。だけど『もう頼むから凡ミスはしないでくれ』と思いながら見ていました(笑い)。デビュー戦から良かったと思いますし。『淳之介はこれでも動じないのか』と驚きましたね」。高校3年間で大きく伸び、羽ばたいていったOBは、今も恩師を驚かせ続けていた。

「岐阜を捨てた男」の帰郷が出会い

帝京大可児高の仲井正剛監督

帝京大可児高の仲井正剛監督

帝京大可児で指揮を執る仲井は、岐阜を代表する名選手だった。中学年代では、後にDF青山直晃(元清水エスパルスほか)、DF本多勇喜(ヴィッセル神戸)、DF鈴木淳之介らを輩出する岐阜VAMOSの1期生としてプレー。10番を背負って主将を務め、93年には2年生だけで日本クラブジュニアユースサッカー選手権で8強に進出し、翌94年には同大会で全国制覇。高校は桐蔭学園でプレーし、阪南大では1年時から主力として出場し、2年時に総理大臣杯で同校初の8強、3年時に初4強、4年時には初Vと歴史を塗り替えた。

Jクラブの練習にも参加もする注目選手だったが、最後のインカレで負傷。「そこで心が折れてしまった」という仲井は、選手としての道を諦めることになった。

卒業後はスキューバダイビングに関わる企業に就職したが、帝京大可児中学・高校がサッカー部を強化することになり、声がかかった。03年に中学のサッカー部を立ち上げ、04年から強化スタートした中で、地元の岐阜出身だったことが助けになった。

桐蔭学園時代に岐阜の高校と対戦した際や岐阜に戻った際には、地元指導者からから「裏切り者」、「岐阜を捨てた男」と冗談を言われていたが、いざ岐阜で指導するとなったら、ベテラン指導者が力になってくれたという。

「やっぱり田舎なんで、閉鎖的なんです。でも『仲井が戻ってきてやるんだったら』ということで、多くの方が力を貸してくれたり、選手を預けてくれたりしました」

そんな中で出会った選手の1人が、鈴木だった。

FC岐阜の下部組織に落ちて進んだ高校サッカー部

帝京大可児高に飾られた鈴木淳之介のユニホーム(右端)

帝京大可児高に飾られた鈴木淳之介のユニホーム(右端)

 鈴木と出会ったのは、鈴木が中学生のころだった。岐阜・各務原市出身の鈴木は、小学生時代に愛知のF.C.DIVINE(ディバイン)でプレー。JFAフューチャープログラムU-12のメンバーに選出されるなど知られた存在だった。しかしFC岐阜U-15のセレクションに落選。仲井の出身クラブである岐阜VAMOSに進んだ。同クラブの選手の一員として帝京大可児の練習に参加したのが最初だった。

「僕が出身のVAMOS選手は、本人が希望してくれたら練習参加はしてもらっています。淳之介もそうやって来てくれていました。ただ、すごく強い印象があったわけではないんですよね」

本文残り51% (2483文字/4872文字)

スポーツ

永田淳Jun Nagata

Aichi

1980年(昭55)9月9日、愛知県生まれ。小3でサッカーを始める。法大卒業後、商社、フリーランスのサッカーライター、商社、外資系半導体メーカーでの勤務をへて、23年4月に日刊スポーツ新聞西日本に入社。日本サッカー協会B級ライセンス保有。日本アンプティサッカー協会技術委員長。X(旧ツイッター)は@j_nagata