松戸競輪場イベントステージに据えられた故東出剛氏のブロンズ像。普段は千葉競輪場内の「競輪大学」に設置されている
松戸競輪場イベントステージに据えられた故東出剛氏のブロンズ像。普段は千葉競輪場内の「競輪大学」に設置されている

数々の戦績を残した故・東出剛氏(54期・享年39歳)をたたえる「東出剛メモリアルカップ in松戸」が、15日に決勝戦を迎える。

今回の【敢闘門】は、これまで開催された千葉競輪場が休止のため、舞台が移った松戸競輪場から東出氏にまつわるエピソードを探した。2度のKEIRINグランプリ出場や記念制覇は27度を数えながら、タイトル奪取がかなわなかった。志し半ばで病に伏した東出氏をしのぶ。

東出氏を含む54期生は1984年にデビュー。当時の124人から、現在は4人になった。

北沢勝弘が54期同期・東出氏をしのぶ
北沢勝弘が54期同期・東出氏をしのぶ

今節参加の北沢勝弘(56=栃木)はその1人だ。ともに汗を流した競輪学校時代を振り返り「2歳上のオレから見ても、東出は大人びたというかね。寡黙でストイックだった。常に集中力を高めて、競走訓練になれば混戦でも突っ込む。S級に上がったのは一緒の頃で対戦もしたが、ほとんど勝てなかった。確か、S級になってすぐ追い込みに変わったよね。強さは別格。今ごろは天国にいるのか。あのひげを、手でなでているかな(笑い)」と懐かしんだ。

会田正一が東出氏と連係した01年松戸日本選手権を振り返る
会田正一が東出氏と連係した01年松戸日本選手権を振り返る

会田正一(48=千葉)は全盛期に東出氏としのぎを削った。当所の01年日本選手権ではそれぞれ準決で敗れ、最終日はともに順位決定戦回り。展開は伏見俊昭の先行1車。番手は小橋正義(59期引退)が先んじて主張したが、会田は東出氏と長い話し合いの末に番手を主張。結果は伏見が1着で、会田は競り勝って2着になった。「あの時は、僕が千葉の代表で選手宣誓した。そんなこともあって、東出さんに番手回りを申し出た。追い込みになってから、東出さんの前を回ったのは最初で最後。いいレースができてよかった。変なレースをすると、『しっかりしろ』って怒られたからね。僕は東出さんに教わったことを後輩に受け継ぎたい。そのためにも、まだまだ頑張る」。2日目に落車して最終日は欠場するが、「体調を整えて次に備える」と気丈に振る舞った。

東出氏に師事する三上佳孝。手にするフレームは東出氏が使用した物と同じカラーリングが施されている
東出氏に師事する三上佳孝。手にするフレームは東出氏が使用した物と同じカラーリングが施されている

東出氏の弟子で唯一、選手デビューした三上佳孝(36=千葉)は千葉競輪場での練習を思い起こした。「東出さんはほとんど黙っていて、言葉でアドバイスすることはなし。僕はいつも見よう見まねだった。乗り込みを始めれば、僕も後から続いて乗り込み。ウエートトレーニングに移れば、それを見た僕もウエート。ずっと、そのパターンで鍛えられた」。師匠の無言のエールは、今でもレースの度に思い出す。フレームを見やりながら「このカラーリングは師匠と一緒。デビューから、ずっとこのデザイン」と愛車を見つめた。

JKAに保存されている松戸競輪の出走表。開設42周年前節S級決勝10Rで、東出氏は逃げ切った鈴木誠氏をマーク。失格するほどの激しいブロックで、森山昌昭の巻き返しを阻んだ
JKAに保存されている松戸競輪の出走表。開設42周年前節S級決勝10Rで、東出氏は逃げ切った鈴木誠氏をマーク。失格するほどの激しいブロックで、森山昌昭の巻き返しを阻んだ

記者は92年8月の開設記念決勝を思い出す。東出氏は、先行した鈴木誠(55期引退)の番手。新鋭・森山昌昭のまくりを、ブロックして止めた。その動きは失格したほど激しかった。いつの日か松戸の取材では、約2、3カ月でフレームを換える理由をたずねるようになった。「今のこのフレームはかなりいい物だけど、へたるかもしれないし、次はもっといい物と出合えるかも。だから換えるんだよ」と話していた。

勝ちみに遅かったが、それは機動型を徹底的にガードし、南関ラインの下支えを進んでこなしたことが大きい。また、常に新たな可能性を探り、向上心が絶えなかった。病魔に侵されながら、簡単には自転車から降りようとしなかった闘将。2月22日が命日で、この世を去って15年。それでも戦いの記憶は色鮮やかに脳裏に焼き付いている。【野島成浩】