セレッソ大阪の関係者のみなさま、ファン、サポーターのみなさま、初タイトル獲得おめでとうございます! 待ちに待った星1つ目。主将のFW柿谷曜一朗(27)がカップを掲げた姿に涙した人も多いでしょう。そして、ここからがC大阪にとって新たなスタートとなる。

 あれから3年がたつ。私は入社1年目の14年11月1日、研修を終えてサッカー担当になった。初めて担当したクラブはC大阪。当時はJ1残留争いの真っただ中で、残り4試合。担当となって2日後に「次節にも降格」という原稿を書いた。練習場の空気は張り詰め、関係者、スタッフ、選手へのあいさつ回りも気が引けた。舞洲(大阪市此花区)だけが、とてもとても寒く感じたことをよく覚えている。

 チームは結局J2降格。元ウルグアイ代表FWフォルランはじめ、タレント軍団と称されながらも厳しい戦いを強いられることとなった。私自身「これからこのチームはどうなるんやろう…」と漠然と感じた。15年はJ1昇格プレーオフ(PO)決勝で涙をのんだ。先制しながら後半42分に福岡に追いつかれ、シーズン上位の相手がJ1復帰を果たした。試合終了の笛が鳴るとコーナーフラッグ付近でFW玉田(現名古屋)が座り込み、顔を覆って動けなくなった姿は今でも目に焼きついている。

 そして16年。この男が帰ってきた。背番号「8」のFW柿谷。下部組織で育った14年W杯ブラジル大会代表の復帰に期待が高まった。誰もが「J2優勝」を視野に入れた。だが、柿谷にとってとてもつらい、試練の1年になることをシーズン当初は予想できなかった。

 6月8日長崎戦だった。試合中に右足関節靱帯(じんたい)を損傷。8月に手術を受けた。リハビリしても、リハビリしても違和感はぬぐえず、両太ももまで痛めた。思わぬ長期離脱となり、復帰はシーズン終盤となった。

 後々、柿谷から聞いた。「俺な、ほんまはケガした時泣いてん」。そんなふうには見えなかった。実際に落ち込んでいたとしても、クラブハウスから1歩外に出ればいつだって明るく、仲間を励ます様子は、柿谷らしかった。主将だったこともあるだろうが、何とか鼓舞しようとプレーできなくともチームを支えていた。

 J1昇格を果たした今季。チームは好調だった。リーグ首位に立った時期もある。ちょうどその頃、柿谷と話した。「チーム、好調ですね」と話しかけると一喝された。「好調? ちゃうやろ、何も成し遂げてへんやん」。そのひと言で全てがつながった。柿谷が常に考えていたのは、自分のことではなかった。セレッソのことだった。負傷時に流した涙もクラブのため。タイトルを取るため、歴史をつくるため、自分にできることは何か。謙虚に考え続けてきた。

 ルヴァン杯決勝の舞台。先発でピッチに立った柿谷にあったのは危機感だったと思う。その危機感とずっと向き合ってきた「8番」がいたからこそ、クラブは壁を乗り越えられた。3年前、私が感じた「このチームはどうなるのか」という思いの答えを見せてもらった。誰よりも、C大阪を愛する主将がいる限り、もうバラバラになることはない。タイトル獲得で満開に咲いた桜の花。きれいに咲く花を支える太く頼もしい幹は、柿谷だったのかもしれない。【小杉舞】

 

 ◆小杉舞(こすぎ・まい)1990年(平2)6月21日、奈良市生まれ。大阪教育大を卒業し、14年に大阪本社に入社。1年目の同11月から西日本サッカー担当。現在の担当はG大阪や神戸、広島、J2京都、名古屋など関西圏のクラブ。柿谷の妻でタレントの丸高愛実や、C大阪の美人ピッチリポーターでタレントの池田愛恵里と同い年…だが、なんでこんなに違うのか…。