「私は勝てると信じていた。選手たちは私の注文通り、タフにアグレッシブに戦ってくれた」

1996年7月21日、米マイアミでのアトランタ・オリンピック(五輪)男子サッカー1次リーグ第1戦。日本が1-0でブラジルを破り、「マイアミの奇跡」と呼ばれる史上最大の番狂わせを演じた。だが、試合後の西野朗監督(当時41)のコメントは“想定内”を強調した。

後半27分にMF路木の左クロスが、FW城と相手GKジダ、DFアウダイールの間に入り、交錯して生まれたこぼれ球をMF伊東が右足で蹴り込んだ。その1点をGK川口中心に気迫あふれる守備で封じた。日本の4本に対し、ブラジルは28本のシュート。まさに攻められ続けた中での奇跡の勝利だった。

その2年前、94年ワールドカップ(W杯)米国大会でブラジルが通算6度目の世界一に輝くが、日本がW杯に初出場するのは、アトランタ五輪より2年後の98年フランス大会になる。世界的には日本の評価は高くなかった。

五輪でもメキシコ大会の銅メダル以来、日本はアトランタ大会で28年ぶりの本大会出場を果たしたばかりだった。王国に勝つ予想は皆無に等しかった。

だが西野監督は勝利のシナリオをひそかに練った。左ウイングの服部をボランチで起用し、MFジュニーニョのマーク役に。ボランチの広長は突然、控えに回った。左ウイングには出場経験の少なかった路木を入れた。守備優先で戦った上で、少ない得点機をものにして競り勝つ作戦だった。

ブラジルの直前までの試合や動向を探り、最終ラインに不安定さがあることを察知。西野監督や山本昌邦コーチ、偵察担当だった松永英機・日本協会強化委員らの眼力が光った。だから西野監督は、この試合に「奇跡」や「奇策」といった言葉が使われることを嫌った。

「とにかくディフェンスができないと勝負にならなかった」と西野監督。当時19歳で頭角を現し始めた「ヒデ」こと、MF中田は「勝つつもりなんてなかった」と、冗談にも聞こえないコメントを残したのも印象的だった。

この大会は結局、2勝(1敗)した日本が1次リーグ敗退という史上初のケースになった。ブラジル戦のように守備を前提にした戦法が、日本協会から「消極的」とされたことが、西野監督の後の指導者生活に大きな影響を与えた。

02年から指揮を執ったガンバ大阪では超攻撃的なポゼッションサッカーを貫き、多くのタイトルを獲得。18年W杯ロシア大会でも、日本をあと1歩で史上初のベスト8というところまで押し上げた。西野朗という1人の監督だけではなく、日本サッカー史上にも大きな影響を与えた“奇跡”だった。