野人から、後輩たちへメッセージが届いた。98年フランス大会で、日本を初のワールドカップ(W杯)に導いた元日本代表FW岡野雅行氏(49=現J3ガイナーレ鳥取GM)が15日までに、日刊スポーツの取材に対応。22年W杯カタール大会を目指す日本代表は16日に発表、24日のアジア最終予選・アウェーのオーストラリア戦に勝てば、7大会連続7度目の本大会進出が決まる。その歴史を築いた野人が経験した「恐怖」「重み」とは。【取材・構成=栗田尚樹】

「思い出すことも怖い」

岡野氏は、そう言った。「ジョホールバルの歓喜」の主人公は、恐怖を感じていた。マレーシア・ジョホールバルの環境は過酷だった。

岡野氏 当時は警備も少なく、つばを引っかけられたりもした。ホテルでは、駐車場でライブをしていましたよ。夜通しだった。寝させないためだったんでしょう。部屋への無言電話も当たり前。グラウンドに行けば、くぎが落ちている。

97年11月16日。運命の日が訪れた。日本は、98年フランス大会W杯のアジア最終予選のアジア第3代表決定戦で、イラン代表と対決。2-2で迎えた延長戦。最終予選で出場機会がなかった岡野氏が、ピッチに入った。

岡野氏 グラウンドに入ることが嫌だった。あんな場面で出るって、なかなかない経験。やりたくない、体験したくないって。素直に怖かった。

「ドーハの悲劇」がよぎった。「また出られなかったら、どうしよう」。20年以上前のことも、記憶が風化することはない。むしろ、鮮明に脳裏によみがえる。

不安の中、不思議な感覚に陥った。何度も決定機が訪れた。「延長ですよ? ボールを触れないこともある。普通はあんなに、チャンスが来ない」。ただ、なかなか決められなかった。それでも、神は見放さなかった。中田英寿のミドルシュートのこぼれ球に、スライディングしながら、右足で押し込んだ。

仲間たちから言われた。

「岡野が入れるために、あの試合が行われた」

「10、20回外そうが、岡野が入れると思っていた」

恐怖から解放された瞬間だった。アジア最終予選中は、日本も異様な雰囲気だったから。「家にスプレーで落書きされた人もいた。奥さん、子どもたちを実家に帰す選手もいた。家にパトカーが張り付いていたり」。極限の精神状態で、日本に歓喜をもたらした。

今や、日本はW杯に出て当たり前と言われる。岡野氏は「あの時、W杯に出ていなかったら、日本は今、W杯に行けているのか。Jリーグは続いているのか」。歴史をかみしめる。日本は24日のアウェー・オーストラリア戦に勝てば、カタール大会の切符を手にする。

岡野氏 気持ちだけだと思います。難しいこともいらないし、勝つことに全てをかけて。内容ではない。泥臭く戦うこと。

今は警備も厳重。つばを掛けられることもない。ピッチにくぎもなければ、ライブで妨害されることもない。だからこそ、思う。「重みを感じてほしい」。日の丸を背負う重みを。

◆岡野雅行(おかの・まさゆき)1972年(昭47)7月25日、横浜市生まれ。日大中退で94年に浦和入り。神戸、浦和、TSWペガサス(香港)、鳥取でプレーし、13年に現役引退後、鳥取のGMに就任。愛称は「野人」。国際Aマッチ25試合2得点。175センチ、72キロ。

◆ジョホールバルの歓喜 97年11月16日、マレーシア・ジョホールバルで、98年W杯フランス大会のアジア第3代表決定戦で日本はイランと激突。FW中山の得点で前半を1-0で折り返したが、後半開始直後に前日練習で車いす姿だったFWアジジに同点ゴールを許し、さらにエースFWダエイに勝ち越し点を決められた。何とかFW城のゴールで追いつき、延長戦から岡野が登場。PK戦が濃厚となった延長後半13分、MF中田のシュートのこぼれ球を岡野が押し込んでVゴール。W杯初出場を決めた。