新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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あの表情がいまだに忘れられない。08年8月、中国・瀋陽の空港で当時J2のセレッソ大阪所属だった香川真司(現スペイン2部サラゴサ)と目が合うと会釈された。何とも言えない申し訳なさそうな顔だった。北京オリンピック(五輪)日本代表は、1次リーグ3連敗と惨敗した。世界中に名前を売るはずだった大会で何もできなかった。私も仕込んだ原稿のネタを披露することなく、帰国の途についた。

それから10年後の18年ワールドカップ(W杯)ロシア大会、日本代表の10番を背負って1次リーグ突破の原動力となったことは感慨深い。初戦のコロンビア戦、先制のPKを決めた時のガッツポーズは、これまで味わってきた悔しさから解放されたように見えた。北京五輪、14年W杯ブラジル大会での惨敗。プレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッドでは力を存分に発揮できなかった。世界的に有名にはなったが、彼の人生は挫折の方が多い。

初めて取材したのは07年1月のJ2C大阪の高知キャンプ。その時は控え組の左サイドバックだった。当時17歳だったが、ドリブル、パス、トラップなどの技術は明らかに日本でトップレベル。経験を積んで、もう少しフィジカルが強くなれば、日本を代表する選手になると確信した。

同じ神戸市垂水区出身ということもあり、取材も盛り上がることが多かった。「日刊スポーツに載るんですか? うれしいなあ」と初々しく話してくれた。その後も「日本代表の10番になれるよ」と話しかけると「僕以外にも、もっといい選手いますよ」と返された。だが、北京五輪後には「絶対に日本代表に定着して海外へ移籍します」と堂々と言うようになった。

C大阪の独身寮では毎日のようにスペインリーグの試合を熱心に見ていた。目標にしたのは世界一の司令塔だった当時バルセロナのイニエスタ(現ヴィッセル神戸)だ。大阪・南津守の練習場で「メッシよりイニエスタ(の方がすごい)ですよ」と言われた。今はイニエスタが神戸に所属し、香川がスペインにいる。当時を思うと不思議な気持ちになる。

原稿のネタが乏しい1月のオフには神戸市垂水区の海岸に呼び出して、明石大橋をバックに写真を撮って意気込みを語ってもらったこともあった。記者にとっては「困った時の香川」だった。ドルトムントで大活躍した時にドイツ紙に「極上のすし」と表現された。それを見るたびに、何度か一緒に食べたタイのにぎりを思い出した。

10年W杯南アフリカ大会はサポートメンバーとして参加。メンバー発表の日、百貨店で3万円の尾頭付きのタイを購入しW杯出場を祝おうと思っていた。結局は落選してしまい、北京五輪に続いて思いついた原稿の演出を披露することはできなかった。

香川がドルトムントへ移籍した後の10年末に、私はサッカー担当を離れた。もう時効だろう。その時にもらったサイン入りのレプリカユニホームは家に飾っている。「誰にも言わないでくださいよ」とくぎを刺されてから約10年がたった。

世界中で新型コロナウイルスがまん延している中、SNSを通じて見る彼の姿はどんな時も前向きだ。夢のスペインリーグ移籍をようやく果たした。そして、もう1度日本代表のユニホームを着て、世界を相手に大暴れをして欲しいと願っている。【奈島宏樹】