[ 2014年2月8日8時20分

 紙面から ]<連載:浅田真央

 悲願女王へのラストダンス第9回>

 

 春を待つ北米で2人は2年ぶりに相まみえた。浅田真央と金妍児。誕生日は20日違いの同学年。ジュニア時代から切磋琢磨(せっさたくま)し、バンクーバー五輪でのライバル対決は日韓、そして世界を熱くした。13年3月にカナダ・ロンドンで開催された世界選手権、その熱はまた上昇しようとしていた。

 バンクーバー後も競技を休むことなく続け、12-13年シーズンは5戦全勝で大一番を迎えた浅田。対して金は、五輪後は休養をはさみ、18年平昌(ピョンチャン)五輪開催への大使などを務め、国際舞台の主要大会は2年ぶり。対照的な歩みだったが、大会を通じて互いへの言及は“非”対照的、むしろ共鳴していた。

 浅田はバンクーバー前を振り返り、こう話したことがある。「やはり(金に)勝ちたいという思いが強くなってしまう時もありました。しかし、それは自分を成長させてくれたし、強くしてくれていたのだと思います。いまは自分のやってきたこと、自分の滑り、表現したいこと、自分が目指している技術を成功させることに気を付けています」。視線が少なからず相手に向かっていた昔。それがいまは「自分」に向かう。

 その心理は金も同じ。この大会前の会見でこう話した。「浅田真央さん自身の存在は重圧ではないですが、メディア、ファンの視線などは負担でした。いまは、あまり気にしないようにしている。いまはそれより軽い気持ちで、正しい演技をしなければならないことが重圧なので」。すでに金メダルを手にし、2度目の五輪では己とどう向き合うかがテーマだった。

 この世界選手権では、優勝した金に敗れて銅メダルに終わった。だが、表情は晴れやかに「悔しい気持ちはあるんですけど、自分がやってきたことはできた」と言った。フリーではトリプルアクセルが回転不足になりながら、6年ぶりに自己ベストを塗り替えた。戦っていたのは自分。最高の演技を出せたかどうか、だった。

 1年後のソチ五輪へ-。その覚悟の大きさを示したのは、4月の国別対抗戦だった。自らの口で集大成のシーズンへの誓いを立てた。(つづく)【阿部健吾】