今年を最後に75回の歴史に幕を閉じる福岡国際マラソンは、12月5日(12時10分スタート)に福岡市・平和台陸上競技場発着で行われる。今大会は東京五輪出場選手は不在で、コロナ禍で海外選手の招待もなし。そんな中、元日本記録保持者の設楽悠太(ホンダ)、東京五輪マラソン代表補欠の大塚祥平(九電工)、今年のびわ湖毎日マラソン3位の細谷恭平(黒崎播磨)、プロランナーの川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)らが名を連ねた。

1947年(昭22)に「金栗賞朝日マラソン」として第1回が行われ、マラソン人気が高まる中、瀬古利彦、中山竹通、藤田敦史ら数多くのスターランナーとともに数多くの名勝負が誕生した。そこで過去の思い出深いレースを、過去の紙面とともに紹介する。


第33回 1979年12月2日

79年12月3日付 日刊スポーツ紙面
79年12月3日付 日刊スポーツ紙面

1 瀬古利彦(早大)2:10:35

2 宗  茂(旭化成)2:10:37

3 宗  猛(旭化成)2:10:40

大久保初男がレースを引っ張り、瀬古、宗兄弟は後方集団でレースを進める。24キロで大久保が後退。35キロで瀬古、宗兄弟、伊藤国光に外国勢2人を加えた6人。だがすぐに伊藤とチャンソブ(北朝鮮)が遅れ、さらにフォード(英国)も先頭集団から離脱。勝負は平和台へと持ち込まれ、先頭に宗猛、すぐ背後に宗茂と瀬古。残り200メートルで瀬古がスパート。宗茂が追いすがったが届かなかった。スピードに自信を持っていた瀬古が2連覇。3位の宗猛までがモスクワ五輪代表に内定した。


第37回 1983年12月4日

83年12月5日付 日刊スポーツ紙面
83年12月5日付 日刊スポーツ紙面

1 瀬古利彦(エスビー食品)2:08:52

2 ジュマ・イカンガー(タンザニア)2:08:55

3 宗  茂(旭化成)2:09:11

アフリカの新鋭イカンガー(タンザニア)が先頭で引っ張り、高速ペースでレースは進んだ。35キロではイカンガー、サラザール、瀬古、伊藤国光、宗茂、猛兄弟(旭化成)が先頭集団を形成。39キロでイカンガーが飛び出すと、瀬古がその背中を追った。ラスト100メートルで、瀬古がイカンガーを抜き去り、3年ぶり4度目の優勝を飾った。勝負師瀬古らしい、最後の切れ味が光るレースだった。


第41回 1987年12月6日

87年12月7日付 日刊スポーツ紙面
87年12月7日付 日刊スポーツ紙面

1 中山竹通(ダイエー)2:08:18

2 新宅雅也(エスビー食品)2:10:34

3 ヨルグ・ペーター(東ドイツ)2:11:22

ソウル五輪の代表選考会で「福岡一発勝負」とされた中、瀬古利彦(エスビー食品)が左足の剥離(はくり)骨折で大会直前に欠場を発表した。中山竹通(ダイエー)が瀬古に対し「はってでも出てこい」という趣旨の発言をし、大きな話題となった。レースは中山の独壇場となった。35キロを世界最高より速いペースで走り、大きな期待を背負ったが、終盤は雨もあってペースダウン。それでも2時間8分18秒の大会タイで優勝した。欠場した瀬古は「救済措置」として翌春のびわ湖毎日マラソンに優勝し、ソウル五輪の3人目の座を射止めた。



第49回 1995年12月3日

95年12月4日付 日刊スポーツ紙面
95年12月4日付 日刊スポーツ紙面

1 ドスサントス(ブラジル)2:09:30

2 アントニオ・セラーノ(スペイン)2:09:32

3 大家正喜(佐川急便)2:09:33

アトランタ五輪の切符をかけたレースで思わぬ伏兵、大家正喜(佐川急便)が飛び出した。谷口浩美、川嶋伸次(ともに旭化成)、早田俊幸(鐘紡)らが有力視される中、早田が31キロあたりで遅れると、川嶋が35キロ手前、谷口も37キロ付近で後方に下がった。40キロをすぎ、先頭はドスサントス、セラーノと大塚。最後のトラック勝負で、ラスト100メートルで大塚は遅れて3位となったが、29歳にして9分台の記録を出し、五輪切符を手にした。



第54回 2000年12月3日

00年12月4日付 日刊スポーツ紙面
00年12月4日付 日刊スポーツ紙面

1 藤田敦史(富士通)2:06:51

2 李 鳳柱(韓国)2:09:04

3 アブデラ・ベハル(フランス)2:09:09

24歳の藤田が2時間6分51秒で優勝した。28キロ過ぎでアトランタ五輪銀メダルの李鳳柱が遅れ、30キロをすぎてシドニー五輪金メダルのアベラ(エチオピア)と藤田の一騎打ち。36キロ付近で、藤田が一気にギアを上げて独走態勢に入った。ゴールに向かって加速していく圧巻の走りで圧勝。1999年のベルリンで犬伏孝行(大塚製薬)がマークした2時間6分57秒を6秒更新した。


第57回 2003年12月7日

03年12月8日付 日刊スポーツ紙面
03年12月8日付 日刊スポーツ紙面

1 国近友昭(エスビー食品)2:07:52

2 諏訪利成(日清食品)2:07:55

3 高岡寿成(カネボウ)2:07:59

アテネ五輪代表選考会の初戦は実力派ランナーの激しいバトルとなった。。37キロで諏訪、38キロ付近では日本記録保持者の高岡がスパートをかけたが抜け出せない。そんな中、国近が40キロ付近で先頭に立ち、勝負をかけた。残り800メートルで追ってくる諏訪を退け、当時の日本歴代6位タイでゴールした。国近は、瀬古利彦監督が育てた最初のマラソン五輪代表となった。


第60回 2006年12月3日

06年12月4日付 日刊スポーツ紙面
06年12月4日付 日刊スポーツ紙面

1 ハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)2:06:52

2 ドミトロ・バラノフスキー(ウクライナ)2:07:15

3 ジャウアド・ガリブ(モロッコ)2:07:19

この年に2時間5分56秒の06年世界最高記録をマークした「皇帝」ゲブレシラシエが、日本のマラソンに初めて登場した。ゲブレシラシエを軸にレースは進み、27キロで藤田敦史(富士通)が落ちると、日本人選手は続々と後退。日本勢で唯一食らいついた奥谷亘(SUBARU)も35キロ手前までだった。ゲブレシラシエはここでの優勝をステップに、翌07年9月のベルリンで2時間4分26秒の世界記録をマークした。


第61回 2007年12月2日

07年12月3日付 日刊スポーツ紙面
07年12月3日付 日刊スポーツ紙面

1 サムエル・ワンジル(トヨタ自動車九州)2:06:39

2 デリバ・メルガ(エチオピア)2:06:50

3 佐藤敦之(中国電力)2:07:13

北京五輪選考レース初戦。30キロをすぎで先頭は、宮城・仙台育英高出身のワンジル、デリバ・メルガのアフリカ勢と佐藤だけになった。佐藤は粘りの走りでワンジル、メルガに食らいつこうとしたが引き離された。それでも日本勢トップを守り、北京切符を手にした。初マラソン初優勝のワンジルは翌年のロンドンで世界歴代5位の2時間5分24秒を記録し、ケニア代表として北京五輪に出場。2時間6分32秒のオリンピック記録で金メダルに輝いた。そのワンジルは2011年に自宅バルコニーから転落し、死亡している。


第65回 2011年12月4日

11年12月5日付 日刊スポーツ紙面
11年12月5日付 日刊スポーツ紙面

1 ジョセファト・ダビリ(小森コーポレーション)2:07:36

2 ジェームス・ムワンギ(NTN)2:08:38

3 川内優輝(埼玉県庁)2:09:57

ロンドン五輪代表を決める国内選考会の初戦。世界選手権にも出場した市民ランナー川内が注目される中、川内はハイペースについていけず20キロすぎにいったん後退した。30キロを過ぎて日本人トップ争いは、前田和浩(九電工)と今井正人(トヨタ自動車九州)に絞られたかに思われた。そこから川内が猛然と追いかけた。36キロ過ぎ、ついに2人をとらえてると、歯を食いしばっての根性比べ。39キロ過ぎ、今井に前に出られたが、そこから再び逆転すると、そのまま逃げ切った。日本人最高の3位となり、ロンドン切符は有力視された。だがレース後に翌年2月の五輪選考会、東京マラソンへの出場を明言。その異例の再挑戦は14位と敗れ、結果的に五輪出場は夢と散った。


第72回 2018年12月2日

18年12月3日付 日刊スポーツ紙面
18年12月3日付 日刊スポーツ紙面

1 服部勇馬(トヨタ自動車)2:07:27

2 イエマネ・ツェガエ(エチオピア)2:08:54

3 アマヌエル・メセル(エリトリア)2:09:45

マラソン4度目の服部が日本選手として58回回大会の尾方剛(中国電力)以来14年ぶりの優勝を果たした。終盤にペースダウンすることが課題だった服部は、合宿で走り込み強化。この日はアフリカ勢を相手に36キロ過ぎに抜け出し、日本歴代8位の好タイムで9年9月の東京五輪選考会マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)進出を決めた。服部はMGCで2位に入り、東京五輪出場を決めた。だが、その五輪では本来の力が出せず、前半から失速。2時間30分8秒で73位という結果に終わった。


第74回 2020年12月6日

20年12月7日付 日刊スポーツ紙面
20年12月7日付 日刊スポーツ紙面

1 吉田祐也(GMOインターネットグループ)2:07:05

2 大塚祥平(九電工)2:07:38

3 寺田夏生(JR東日本)2:08:03

2回目のマラソンとなった吉田が快走した。青学大4年の20年2月、初マラソンの別府大分毎日で日本選手トップの3位に食い込んでおり、自信を持って臨んだレースだった。吉田は前半、ペースメーカーが引っ張る集団後方につけて余力を残すと、31キロ付近で先頭に立つと独走状態となった。記録との闘いに。終盤にきてペースは落ちたものの、日本歴代9位タイの2時間7分5秒で初優勝を果たした。福岡国際の日本選手としては、第54回(2000年)の藤田敦史の2時間6分51秒に次ぐ好タイムだった。