100回目の箱根駅伝は、近年の高速化を象徴する大会になった。
青山学院大の優勝タイムは10時間41分25秒で、従来の記録を2分17秒も更新した。3区(21・4キロ)を走った太田蒼生(3年)は、同区間で日本人で初めて1時間を切った。5区では城西大の山本唯翔(4年)が、自身の持つ記録を50秒も上回り、2年連続区間新記録を樹立した。
個人の記録だけではない。特筆すべきは9位帝京大までが、10区間217・1キロを10時間台で走破したことである。
初めて11時間の壁を破ったのは、1994年(平6)の山梨学院大で11時間59分13秒。あの30年前の優勝タイムは、今ではシード圏内がやっと。
当時の山梨学院大の監督で、現在は関東学連の駅伝対策委員長の要職にある上田誠仁氏が、大会後にこう振り返った。
「3区の太田くんのタイムは、ちょっと前では考えられない。高速化が進んでいます。私はよく“盾と矛”の話をするのですが、強い盾があるから、強い矛ができる。お互い今のままではダメだと刺激を受けて追求する。その切磋琢磨(せっさたくま)を100回の歴史で連綿と繰り返してきた。今年、青学さんが強力な盾をつくった」
箱根駅伝は87年の第63回から日本テレビが完全生中継を開始。“正月の風物詩”として全国的な人気イベントになると、各大学がこぞって駅伝に力を注ぐようになった。
89年にはケニア人留学生ランナーが初登場。2区を走った山梨学院大のオツオリが7人抜きを演じ、92年にはオツオリ、イセナの2選手を要した同大学が初優勝を遂げると、他校も競って“切り札”獲得に乗り出した。今大会まで箱根路を走った留学生ランナーは40人にのぼる。
17年には反発力のあるナイキの厚底シューズが登場。区間記録が一気に塗り変わった。現在の記録はすべて19年以降に樹立されたもの。21年大会では実に95・7%の選手がナイキ製を履いて走った。
一方で高速化には弊害もある。疲労骨折などの選手の故障が増えていることだ。今大会、2年連続で2区を走り、区間3位と快走した国学院大の平林清済(3年)は、昨年の大会直後に左足の疲労骨折が判明。「2区のコースとレースの疲労。長距離にはシーズンオフがほとんどない」と明かしていた。大学側は選手強化と並行して、予防やケアなど故障対策にも、より気を配る必要がある。
03年からオープン参加の関東学連選抜を含めて、参加チームが15から20チームに増えた。全体的なレベルは上がってはいるが、当然ながら優勝を狙える有力大学に、高校で全国的な実績のある有望選手が集まるため、上位校と下位校の格差も広がる傾向にある。
象徴的だったのが、今大会の復路。往路1位の青山学院大がスタートした10分後に、往路8位以下の16校が一斉繰り上げスタートとなった。この数字は史上最多タイ。8位以下の順位は往路の貯金タイムの換算が必要になるため、走っている順位と、正式順位が相違する混乱が起きた。
最終10区で東海大を大東文化大が逆転して、シード圏内の10位に滑り込んだが、逆転した時点で、大東文化大の佐々木真人(3年)が走っていたのは、東海大のずっと後方だった。
現状、道路規制の関係で10分後の一斉スタートは変えられないようだが、このままでは幾多のドラマを生んだ白熱のデッドヒートを、今後も直接目にできないかもしれない。
記念大会の今回は予選会で全国の大学に門戸を開き、本大会では出場校を3校増やした。一方で関東学生選抜の出場を取りやめたことへの批判も起きた。
来年以降の全国化を期待する声もある。伝統を守りつつ、いかに時代に即して変化していくか。100回の節目は、未来の箱根駅伝を考えるいい機会なのかもしれない。
最後に、100回大会を取材して、どうしても記しておきたい選手がいる。総合3位と大学最高成績を収めた城西大の6区・久保出雄太(3年)である。
今大会出場368選手中、唯一の石川県出身。1日に地元が大地震に見舞われた。幸い家族は応援のために上京していて無事だった。勇気づけられたのは親戚たちの声。「みんな被災して大変だと思うのに、箱根駅伝を頑張れと励まされて…。力になりました」。
高2までサッカー部。城西大では同好会から、1年の10月に駅伝部での練習を許可されて、2年あまりで箱根のメンバーに入った。
今回は区間13位。来年、最終学年になる久保出はこう言った。「もう1度走るときも、記録や区間賞とかよりもまず、走れることに感謝して走りたい」。記録ラッシュの100回目の箱根駅伝で、一番心に響いた言葉だった。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)



