突然の引退表明だった。

「最後と決めて臨んでいたので。どうなってもいいって気持ちと、へたな演技はできないなって気持ちがありましたね。やっぱり同期にすごいやつらがいますから」

20年12月26日、フィギュアスケート全日本選手権(長野)。男子フリーの演技を終えた直後の取材エリアで、日野龍樹(26)が唐突に打ち明けた。

同期、とは同じ会場で戦った羽生結弦(27=ANA)と田中刑事(27=国際学園)のことだ。1994年度生まれ。ノービス(主に小学生)年代では日野と羽生が日本一を2度ずつ分け合い、中学から高校にかけての全日本ジュニア選手権では3人全員に優勝経験がある。黄金世代のビッグ3だった。

高校、大学卒業を機に大半の選手が氷から離れる世界で、25歳を超えてもなお3人は競技を続けていた。ほかの同期は指導者に、振付師に、会社員に、それぞれ新たな道を歩んでいる。日野も十分に息は長いが「最初に」3人の中でスケート靴を脱ぐことになった。表情は柔らかい。

「ショート(プログラム=SP)が終わってから、フリー当日の朝にかけて(引退を)決めました。こんなもんですよ、やめる時って。来年も続ける体力はないですし、大会の1週間前から体重も減っちゃって。来年もこんな気持ちになるのなら…絶対ここでやめたほうがいいなって(笑い)」

スケート生活は、ちょうど20年。節目に第一線から退くことを成瀬葉里子、川梅みほの両コーチらに伝えた後、記者団への報告をもって12年連続12回目の全日本選手権に別れを告げた。

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★競い合った3回転

競技を始めたのは6歳の時だった。ロシア人の父と日本人の母の間に生を受け、高田馬場でリンクに立った。9歳の時、日本スケート連盟の長野・野辺山合宿(全国有望新人発掘合宿)で羽生、田中らと出会う。練習では跳べる3回転ジャンプの数で勝負し、大会になれば3人が全国大会の表彰台を独占して頂点の座を奪い合ってきた。

東京出身だが、スケート歴の半分以上の11年間を名古屋で過ごした。転機は中学3年。06年トリノ五輪(オリンピック)女子の金メダリスト荒川静香や、冬季五輪男子2連覇の羽生らを育てた長久保裕コーチを慕い「高校は越境進学したい」と両親に頼み込んだ。

「長久保先生は、もともと仙台にいらっしゃって。その時から教えてもらい、指導の拠点を名古屋に移された後も、僕はチームに入れてもらって合宿等でお世話になっていたんです。ジャンプを教えるのが日本一、いや世界一、上手なコーチ。その先生に毎日、習うことができるチャンスが、愛知に行けばある。逃すわけにいかない。父と母に『行かせてほしい』とお願いしました」

愛知・中京大中京高へ進学し、親元を離れた。祖父が付き添って生活を支えてくれた。

「引退して、今こうやって振り返っても最高の決断だったと言えますね。感謝しかないです」

ナショナルトレーニングセンター(NTC)が現在の大阪・関空アイスアリーナではなく、中京大だった時代。将来を嘱望された日野は、中学1年から週末になると愛知へ通うようになり、長久保コーチの指導を受けていた。縁だった。

「中1でトリプルアクセル(3回転半)の練習を始めたんです。長久保先生に週1回か2回、教わって。そうしたら3年の時には降りられるようになった。確実に上達させてくださるコーチに週末だけでなく毎日、習えるとしたら、こんな最高なことはないでしょう。実家を出ることに迷いはありませんでした」

高校では全日本ジュニア選手権を2連覇。ジュニアグランプリ(GP)ファイナルでは表彰台に立って銅メダルを首から提げた。引退した時、必ず聞かれる「競技人生で最も記憶に残っている試合は?」という問いかけには「待ってくださいね。30秒以内に答えますから」と言った直後、わずか3秒で答えた。

「3位になれたジュニアGPファイナルですね。実は全く万全ではない状態だったので。(シーズン本格開幕の)8月から突っ走ってきて、ジュニアGPシリーズで転戦して、全日本ジュニアで2連覇して。その後なんですけど。身体全体に疲れがたまって、全くジャンプが跳べなくなってしまったんです。ファイナルの6人に2年連続で残れたのは『良かった~』だったんですけど、すぐ『本番で1本も跳べなかったらどうしよう…』となって。半信半疑だったんですけど、結果は…いざ試合になったら、自分も、支えてくれた方々も驚く演技。長久保先生を頼って、やることやってきて良かったなと。体が覚えていてくれました」

★ヤグディンに憧れて

元来、ジャンプは好きだった。「3回転半を跳ぶと雲の上に行く感覚になるんです」。いつも憧れのスケーターと自身を重ねた。02年ソルトレークシティー五輪の男子金メダリスト、アレクセイ・ヤグディン(ロシア)。3回転半を飛ぶ姿が世界一美しく、世界一高い、と評された名手だ。

「子供のころは考えたことなかったんですが、ルーツが同じロシアということも潜在意識の中にあったのかもしれないですね。とにかくスケーティングに魅了されて、あの人のようになりたかったですし、あの人のように高く高く3回転半を跳びたかったですし、あの人のようにデス・ドロップ(スピン)も高く浮きたかったんです」

「でも、やっぱり夢は4回転でしたよね。高校2年から長久保先生とトーループの練習を始めて、高3の夏に、練習でしたけど初めて降りられた時の感動は今でも覚えています。今度は雲の上じゃなく、テレビに入ったような。初めて4回転を見た映像の中に、自分自身が入り込んだ感覚になりました」

ヤグディンが唯一跳べた4回転のトーループを降り「スケートをやってきて良かった」と心から思った。公式戦で氷に降りたのは中京大4年の日本学生氷上選手権(インカレ)まで待つことになったが「片足で粘って、回って、何とか着氷って感じでした」と、自分らしさに思わず笑みをこぼす。羽生がソチ五輪で金メダルに輝いた2年後だった。盟友は、トーループとサルコーに続き、既に3本目の4回転ジャンプとなるループを世界で初めて成功させていた。

「それが今では4回転半を目指していますから。化け物ですって(笑い)」。さらに2年後の平昌五輪で羽生は2連覇を遂げ、田中も初出場した。9歳から切磋琢磨(せっさたくま)してきた同期との差は開いたが「いつまでも力をくれる存在、それも同期。少しでも、ユヅ、刑事に近づきたい」と言える。たどり着いた舞台が16年のGPシリーズNHK杯だった。

「さっきの最も記憶に残った試合って質問、もう1ついいですか? やっぱりNHK杯は外せませんよね」

日野、羽生、田中が顔をそろえた最初で最後のシニアの国際大会だった。

「でもその話は、後ほど同期をテーマに聞かれると言うことですから、その時にしましょうか(笑い)。先に僕の『今』からお話しします」

今年7月1日。きらびやかに輝く衣装からスーツに着替えた新社会人は、ネクタイを締めて電車に乗っていた。就職し、初出勤の日を迎えた。選んだのは意外な職種だった。(つづく)【木下淳】

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◆日野龍樹(ひの・りゅうじゅ)1995年(平7)2月12日、東京都調布市生まれ。名前の由来はインド仏教の僧「龍樹」から。「フョードル」のミドルネームを持ち「フェイ」の愛称で呼ばれる。01年にスケートを始め、高田馬場シチズンプラザ-明治神宮外苑FSC-武蔵野学院中-中京大中京高-中京大(スポーツ科学部)。合計の自己ベストは18年フィンランディア杯の205・15点。09年から12年連続で出場した全日本の最終戦はSP、フリー、総合すべて11位で引退。女子の同期は村上佳菜子や細田采花ら。173センチ、65キロ。血液型AB。