フィギュアスケートの元全日本ジュニア王者、日野龍樹(26)が端正な顔をほころばせた。

「あの悔しさは一生、忘れられないんでしょうね」

18年の平昌オリンピック(五輪)。幼少時から日本一を争ってきた、同じ1994年度生まれの2人が同時に出場した。羽生結弦(27=ANA)は66年ぶりの2連覇を達成した。田中刑事(27=国際学園)は18位だったものの夢舞台に立った。日野は日本からテレビで応援していた。

「出場が決まったことに対しては、もちろん『おめでとう!』と思いましたし『頑張ってね!』と2人には伝えましたよ。だけど、悔しかったな。行きたかったな。これって一生、思うんでしょうね。大会中も悔しさは変わらなかったです。テレビで見ていましたけど、もちろん応援しましたけど、悔しい感情の方が勝っていた気がします。それが(21年3月まで)現役を続ける理由になったんですけどね。やめられないな、まだ頑張りたいなって思わせてくれました」

ノービス、ジュニアで日本一2度ずつの日野。五輪には届かずも、世代のトップを走ってきた。羽生、田中ら同期との出会いは小学校4年の時だった。9歳、長野・野辺山。全国有望新人発掘合宿の記憶が強烈に残っている。

「ユヅは、その前の仙台合宿の時も姿は見てるんですけど、しゃべったことはなかったので。初めて会話したのが野辺山ですね。刑事も、その時が最初です。夏に合宿があった後、毎年10月後半の全日本ノービス選手権Bで最初に優勝したのもユヅでした。詳しく言うと、僕が6位で刑事が8位。2位が鈴木潤で3位が(鈴木)拳太郎でした。僕はミスをしていないので、やることやって6位。刑事はミスをして8位。『何とも言えないなあ』って子供心に思ったことを覚えています(笑い)。それが初めて一緒に出た試合でした。ユヅ、うまかったな」

★チャンネル争いで

2人の印象も強く刻まれている。「もう17年前ですかね、あの野辺山は。元気でした、どっちも。今のイメージとは、ちょっと違うかもしれません。うん、やんちゃでした(笑い)。もっともっと元気でしたし、にぎやかでした。もちろん問題を起こす、やらかす、って意味ではないですけどね」

野辺山の宿舎「帝産ロッヂ」では別の部屋だったが、いつも一緒だった。

「生年月日順で2部屋に分かれていたんです。誕生日が11月の刑事と12月のユヅたちが同じ。2月の僕は違う部屋でした。ふふっ、懐かしいんですけど、うちらの部屋で何のテレビを見るかモメていたんですよ。『クイズ!ヘキサゴン』と(ジーコ監督時代の)サッカー日本代表の試合で、ルームメートがケンカになっちゃって。そうしたら、隣の部屋だったユヅが、その場にいたんです、いつの間にか(笑い)。自分は傍聴席的な立場だったんですけど、ユヅは『うんうん』って言い分を聞いていて。放送時間とか内容とか。で、チャンネルが決まったと思ったら、スッと帰っちゃったんですよね(笑い)。何か面白いことするやつがいるな~って思いながら見てました」

田中との思い出については「方言、強かったですね」と冗談で振り返る。「岡山なので語尾に『けん』が付くんです。でも、刑事は週末に大阪で練習するようになったので、だんだん方言が弱まっていったことを覚えてますね。岡山弁と関西弁のミックスみたいな。(お笑いコンビ)千鳥さんみたいな感じというか」と笑ったことを思い出す。

一方で、氷の上に立てば競技成績は国内外でトップクラスだった。

【全日本ノービスB(6月30日時点で満9~10歳)】

▼04年 羽生(KSC泉)1位、日野(明治神宮外苑FSC)6位、田中(倉敷FSC)8位

▼05年 日野1位、羽生(勝山フィギュアクラブ)2位、田中3位

【全日本ノービスA(満11~12歳)】

▼06年 日野1位、田中2位、羽生3位

▼07年 羽生(宮城FSC)1位、田中2位、日野(武蔵野学院)3位

【全日本ジュニア】

▼08年 羽生1位、田中6位、日野不出場

▼09年 羽生1位、日野4位、田中6位

▼10年 日野(中京大中京高)3位、田中(岡山理大付高)9位

▼11年 日野1位、田中2位

▼12年 日野1位、田中3位

▼13年 田中(倉敷芸術科学大)1位、日野(中京大)3位

※羽生(東北高)は10-11年からシニア転向

世界でも、羽生が09-10年のジュニアグランプリ(GP)ファイナルと世界ジュニア選手権の2冠を成し遂げれば、田中は11年の世界ジュニアで2位。日野は12年のジュニアGPファイナル3位と、高名な同期トリオだった。

「ユヅが優勝したり、自分が勝ったり、刑事とは上と下を行ったり来たりしたり、まさに切磋琢磨(せっさたくま)していましたね。『負けないぞ』なんて、言葉にしなくたって伝わる。勝てば、負けたアイツらはめちゃくちゃ練習する。優勝の瞬間だけは素直にうれしいけど『やったー!』とはならなくて。もっと練習されちゃうから、もっと練習しなきゃ…なんですよ。ちょっとでも気を抜いたら負けるかも…と思うと、もう気が気じゃなかったです。全国大会から名古屋に帰っても、同期のことを想像したら怖かった(笑い)」

ほかにも多士済々。振付師や指導者に転じた仲間、アイスショーの世界に飛び込んだ同学年も多かった。

「自分のラスト2シーズンの振り付けをお願いした吉野晃平も同い年です。すごく、いい振り付けをしてくれます。ショートプログラム(SP)の『オルガン付き』と、フリーの『カルメン』『トゥルーマン・ショー』を手掛けてもらいました。刑事の(19-20年の)エキシビションも振り付けしているはずですよ。晃平は長光歌子先生のチームにいます。櫛田一樹君、三宅星南君も晃平の担当です」

「プリンスアイスワールドに行ったのは中島将貴、本田宏樹、小平渓介。あと多田野康太ですね。(日本赤十字社医療センターの)救急科の医師として働いています。名大の医学部から。すごいでしょう。特に男子がすごく多かった代なんですが、みんな本当にありがたい存在でした」

そのハイライトが5年前…16年のGPシリーズNHK杯(札幌)だった。シニアでは最初で最後の国際大会そろい踏みが実現した。

「けがした(山本)草太の代打だったので、複雑な気持ちもありながら。でもGPシリーズに初めて出られる喜びと、そこに同期2人もいるという感慨深さを覚えながら、遠征の準備をした覚えがありますね」

★「日野選手、もっと来いや!」

結果は羽生1位、田中3位、日野9位。

「後で関係者に聞いたら『普段の国際大会と比べて、ユヅは穏やかな感じだったよ』と。やっぱそうだよな、と思いました。もちろん集中するところはしてたと思うんですけど、ユヅって毎回こんなに試合では穏やかなのかなって。ホテルから会場へのバスとか、もっと試合にガッと入り込むかと思ったら、ニコニコ話しかけてきたり。『いつもは、もっとガッと入ってるよ』とも聞きました。すごい笑顔で向こうから歩いてきた時があって、僕は照れくさくて『何だよ!』って言ったら『単純にうれしいだけ』って。ホント『何だよ!』です(笑い)」

羽生も当時、田中の3位に「心からうれしいです」と言い、9位の日野に対しては「日野選手『もっと来いや!』とも思ってます。純粋に楽しかったです」などと同期について話していた。ホテルの部屋でも話は尽きなかった。

「ユヅは一足先にシニアに上がっちゃったし(12年から拠点を移して)カナダに行っちゃったし、なかなか会えなくて。刑事とは西日本(選手権)とか全日本では会ってましたけど、そろうことは本当になかった。あ、テレビのチャンネル争いはしてないですよ(笑い)。久々に会ったので、そりゃ部屋に集まったらテレビを見るより語り合いたいじゃないですか。同期3人で『それぞれ頑張ってるよね』って意思疎通できた。9歳だった野辺山から比べれば、あの札幌は21、22歳ですか。ワーワー盛り上がるというより、もう大人なので落ち着いた話を。カナダの練習環境のこととか聞いたり、いろいろ話しましたかね。思い出深いです」

その“同期会”の中で覚えている言葉がある。

「一緒に五輪、行こう」

約束は果たせなかった。全日本は16年の4位が最高。平昌五輪の代表最終選考会を兼ねた、そのNHK杯の翌17年の全日本は7位だった。

「そう言ってくれたことに対して、本当に申し訳なかったですね。もちろん五輪に出たかった。でも、シニアに上がってからは、いろいろ難しかったです。精いっぱいやりましたけど、そういうものだったんだなと。悔しいけど悔いはない。同じ『悔』の漢字ですけど、そんな感じです」

ただ、現役にこだわる動機を与えてくれた。反骨心を胸に宿してくれた。同期を追いかけたから、スケート靴に、踏み切りに力を込めることができた。

20年12月26日、男子フリーを全うした日野は引退を表明した。

「同期の存在が力になりました」

事後報告にはなったが、2人にも伝えた。

「刑事の耳には大会中に届いたみたいで、全日本の会場で言いました。ユヅには後で連絡しました。まあ実際は長文なんですけど、ざっくり言うと『先にやめてしまうけど、これからも頑張ってね』と送って『今までありがとう。本当にお疲れさま』と返してくれました。(1月の)最後の冬季国体では、同期から色紙の寄せ書きをもらったんです。ユヅからは『あのころから変わってないね』みたいなことを。この先、ユヅと刑事がいつまで続けるのか分からないですけど、これだけは言えます。みんな一緒だったから、ここまでやってこられたんじゃないかなって」

再び、五輪シーズン。羽生は3連覇がかかる北京大会を目指すか明言していない。田中は2大会連続の出場を狙っている。その中で今月22日の公式練習から、また4年に1度の全日本選手権(さいたまスーパーアリーナ)が始まる。

「『頑張れ』とは、もう何千人、何万人に言われていると思うし、言われるまでもなく頑張っているので。あえて自分からエールとか伝える必要はないのかなと。ユヅが全日本に出るとして、刑事もいて(宇野)昌磨君や(鍵山)優真君がいて、草太がいて、友野一希君がいて、佐藤駿君がいて…。いったい何人で北京の3枠を争うのか。純粋に面白そう。チケット…取れないですよね(笑い)」

この日27歳の誕生日を迎えた羽生へ。

「おめでとう! これからも応援してるよ!」

そして、目指す前人未到のクワッドアクセル(4回転半)成功を信じた。

「ユヅなら跳べるんじゃないですか。相当、余裕で3A(トリプルアクセル=3回転半)を決めてますから。僕も3回転半にはこだわってきましたけど、異次元。未知の世界ですが、やっぱ思っちゃいますよね。『ユヅならできる!』って」(おわり)【木下淳】

◆日野龍樹(ひの・りゅうじゅ)1995年(平7)2月12日、東京都調布市生まれ。名前の由来はインド仏教の僧「龍樹」から。「フョードル」のミドルネームを持ち「フェイ」の愛称で呼ばれる。01年にスケートを始め、高田馬場シチズンプラザ-明治神宮外苑FSC-武蔵野学院中-中京大中京高-中京大(スポーツ科学部)。合計の自己ベストは18年フィンランディア杯の205・15点。09年から12年連続で出場した全日本の最終戦はSP、フリー、総合すべて11位で引退。女子の同期は村上佳菜子や細田采花ら。173センチ、65キロ。血液型AB。

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