何度も、何度も。
スマホで再生されるジャンプの動画をいくら見ても、見飽きることはない。
「気づいたら小さい子の跳んでいるトリプルアクセルを10回くらい連続で見ていたり。息抜きがスケートのジャンプを見ることみたいになってますね(笑い)」
昨季までで現役を引退した元フィギュアスケーター永井優香は、いまもスケートを楽しんでいる。ただ、いまはもっぱら見る専門だ。アイスショーに足を運び、海外、ブロック大会までオンラインで観戦する。
「ロシアのテストスケートは日本時間の深夜にライブでやってて。楽しみすぎて、ベッドの上でスタンバイして、妹も呼び寄せて観ました。トルソワが4回転ルッツを後半に2回跳んでいたので、『うわー』と悲鳴上げて、すごく興奮しました。面白いなあと。それにジュニア時代から推しのカミラ(・ワリエワ)ちゃんも観られて久しぶりに自分のテンションが上がる瞬間を感じて、スケート好きなんだなと思いました」
息抜き、という言葉を使った。それほどいまの日常は目まぐるしい。早大を卒業して新社会人になった。
「支えられたからこそ、支えたい」
そう誓って決めた道を永井は歩み始めている。
初秋に東京で再会すると、現役時の優雅な印象はそのままに、新社会人特有の快活さも感じさせながら、今を丁寧に教えてくれた。
14年の年末。ソチ五輪シーズンを終えて、次なる4年間が始まった年の全日本選手権で、優美さと清楚(せいそ)さを滑りに乗せる16歳は4位と躍進。翌年のGPスケートカナダでは銅メダルを獲得するなど国際大会でも活躍したスケーターはいま、今春に大学を卒業して23歳になった。もうスケート靴を毎日履くことはない。大手損害保険会社の新入社員として、新鮮な日々を送っている。
夢と現実と・・・競技に踏ん切り それでもスケートが好き/(残り2671文字)
「スケートは自分からかけ離せない物だとは思っているんですけど、その当時を知らない人たちと一から別の世界で関係を作れるのはすごく楽しいなと思います」
保険業界を選んだのは、かけがえのない経験からだった。
「フィギュアをやる中で、すごくたくさんの方に支えられているなと感じていました。ファンの方やいつも近くで支えてくれた家族やコーチの方が携わってくださり、最終的に自分が氷の上でスポットライトを浴びることをやっていたと思います。支える力って当たり前のことではなくすごいことだなと思っていて、みなが普段、生活するうえで根幹となっているものに携わってみたいなと。それで最終的に落ち着いたのが今の会社だったんです」
例えば、永井には「親戚の方みたい」な存在になっているファンが数人いる。まだ全国的には無名だった小学生時代の地方大会から応援を受け続け、いまも交流がある。
「温かい方に恵まれたなと。親戚でも何でもない一人のスケーターのことを良い時も悪い時も寄り添い応援してくださって。時には一緒に涙も流して」
顔が分からなくても手紙を通じて応援するファンの存在も大きな力に変わっていた。
「近くで支えてくれている人はもちろんですが、自分の知らない場所からも支えてくださっている方々がいるというのが、すごいこと、ありがたいことだなと」
高校時代からおぼろげに将来の事を考えるうちに、そんな「支える人」に自分もなりたいと望むようになっていった。
「スケートをやっててこんなことを言うのも変なんですけど、目立つのは得意じゃなくて。静かにしているのが、自分自身も落ち着くんです」
だから表舞台から降りることに一切の抵抗はなかった。大学3年、就職活動で20社ほど受けたが、軸は支えることだった。評価してくれたのが、いま勤める大手損害保険会社。
「よくインフラのインフラと言われているんですけど。個人のお客様向けの自動車や火災保険とかなら、事故減に取組みつつ、もしもの時には保険サービスを通じて安心を提供しお守りする。対企業だと、事業でいろんな挑戦をする際にもしものことがあると思うので、そのリスクをカバーし大きな挑戦を支えたいなというのがあって。その先に私たちの当たり前の生活が成り立っていると思ったときに大企業がメインの部署で働いてみたいなと」
新たな目標に向かって新鮮な時間を過ごしている。
現役生活の終幕も支えられていることを実感する場だった。
3月、早大スケート部として初開催したアイスショー「WASEDA ON ICE」は、同期の仲間が引退を決めた永井の最後の晴れ舞台の場を作りたいと動いてくれたことが1つのきっかけだった。
「入学してからまたスケートは楽しいという気持ちを取り戻して、4年間やってこれました。山あり谷ありで、それでも、こうやってこの場に立っていられるのは、出会った人のおかげだと思ってます。最後に大好きな部員と一緒に楽しい時間を過ごせてすごく幸せです。本当にありがとうございました」
リンクの上でマイクを通じ、感謝を述べた。
長い競技生活を振り返ると辛いことも多かった。
「いろんな場面でジャンプが跳べなくなる瞬間がありました。体形変化が原因の時もあったし、それとは関係なく、5分前まで跳べていたのに、突然跳び方が分からなくなったりする時も。いろんなパターンがありましたね」
上昇する評価に、戸惑いを感じていた時期もあった。
「自分に期待をしていなかったわけではないですが、自分の気持ちが追いついていない時がありました。『なんかテレビに出てきてるな』みたいな。変な感じがしていて」
16-17年シーズンはGPシリーズ2大会に出場したが、ともに2桁台。全日本選手権も24位と、まさに谷に落ちたような現実を味わった。
「高3の時ですね。壊滅的にジャンプが跳べなくて。普段の練習からできてなくて、その中で大きな試合に出させていただくというのも、申し訳ないし、不甲斐ないしで辛かったです」
同時に受験生でもあった。
「その頃は大学受験の勉強もしていて。圧倒的に人よりも勉強してこなかったし、覚えが良い方ではないと自覚していたので、そっちも不安で。練習帰りの駅のエスカレーターから本やノートを開き始めるみたいな。当時は本当に、スケートも受験も、どうしようと焦っていて」
日本スケート連盟の強化選手から外れ、早大に入学した。色々な意味で0からのスタート。晴れやかな気持ちもあった。そして、おぼろげだった将来像は、少しずつ輪郭を帯びていた。
「もちろん、目の前の課題をクリアできるよう日々スケートに向き合ってはいましたけど、自分の立ち位置を認識していました。やるんだったらトップのトップでやりたかった。でも、もう一度世界の舞台に戻れるか考えた時に自分の中で限界をつくってしまった。あと、将来はスケートの世界以外も見てみたい気持ちも強くあって。スケートをすごく頑張ることでまた新しい世界が見えることもあると思うんですけど、全然違う領域で、と」
新しい世界へ踏み出しやすい区切りは卒業時。それを実行に移した。
新たな世界に飛びこみ、いまはフィギュアスケートを「見る側」になった。
同時に懐かしい思い出もよみがえる。
例えば、24歳にしてロシアのトップ選手として活躍を続けるトゥクタミシェワ。15年のスケートカナダでは一緒に表彰台に上がった。
「体の軽い小さい子が多回転のジャンプを跳べるのも十分にすごいですが、長い間、表舞台に立ち続けることはもっとすごい。。一緒に滑っていたんですもんね。夢のような時間でしたね」
振り返れば、夢の後の厳しい現実に直面した競技生活14年間だったが、いまもスケートが好きな気持ちは揺るがない。むしろ、競技者だったからこそ、そのすごさも分かる。何より、その経験がいまも生きる。
「ジャンプが跳べなさすぎてどうしようもなく辛く感じていた時を考えると、どうにかこうにか、最後と決めた時までスケートを滑りきったことは今後の自信になるかな」
「スケートはさすがに10年以上やっていたので、最後の方は自分で考えて工夫して、トライしてみて、また改善して。先生の助言をもらいつつ、自分でPDCAを回すみたいなことをしていましたけど、仕事はまだ分からないことだらけ。もどかしいなと思うことが多いですが、仕事もできて人間的にも尊敬する先輩に恵まれて、1日でも早く先輩方のように社内外問わず誰かの役に立てる人になりたいなというモチベーションでやってます」
支える側で-。フィギュアスケートに力をもらいながら、表舞台に立つ人たちのために。(敬称略)【阿部健吾】