<全国高校野球選手権:大阪桐蔭4-3三重>◇25日◇決勝

 「新時代」の到来だ。大阪桐蔭が三重との決勝に競り勝ち、全国3917校の頂点に立った。1点を追う7回2死満塁で中村誠主将(3年)が逆転の2点適時打。スター不在と言われ、昨秋は府大会コールド負けでセンバツを逃し、どん底からはい上がった。春夏連覇を達成した12年以来、2年ぶり4度目の全国制覇。大阪のライバル、PL学園に並ぶ4度目の日本一に、新時代の始まりを予感させた。

 左翼から駆けながら、中村は泣いていた。1点リードの9回2死一、二塁。遊撃・福田からのワンバウンド送球に、一塁手・正随(しょうずい)が懸命に体を伸ばして捕球。アウトのコールに仲間とマウンドで抱き合い、折り重なる。「マウンドにみんなが集まっているのを見たら涙があふれて…」と、輪に飛び込んで行った。

 「最高です!」

 お立ち台で叫んだ。閉会式後は胴上げも待っていた。夏はPL学園と並ぶ4度目の優勝。大阪桐蔭の名前をまた全国に知らしめた。

 勝負を決めたのも中村のバットだった。1点を追う7回2死満塁。左腕今井の高めの真っすぐに詰まった打球が、ふわふわっと中前に上がる。ダイブした中堅手の追いつく一瞬前に落ちる逆転の2点適時打となった。「三振した(前打者の)福島に『頼んだ』と言われ、絶対に打って逆転するという思いでした」と、一塁ベース上で右腕を突き上げた。

 上腕から手首までテーピングされた右腕。慢性的な肘痛で完全には伸び切らない。1年のとき、曲がった右肘で打撃投手を務めていた。指導陣に止められるまで、懸命に投げていた。「自分の目指す野球がある」と選んだ大阪桐蔭で、チームの役に立ちたい思いだった。

 頼られる主将が「頼りになるチーム」と実感した日があった。鼻骨骨折で欠場した大阪大会4回戦の阪南大高戦。ベンチで、攻守交代のたびに走る控えの部員を眺めて気付いた。「帽子、グラブの運搬は普通。うちは飲み物、顔や手が汚れていたらタオル、暑ければ氷嚢(ひょうのう)も運んでくれる」。最良の状態を作り、支える仲間の姿に熱くなった。走攻守の力に加え、隙のない助け合いこそチームの伝統。最近7年で3度目の全国制覇の裏に、勝利に一丸となれる、チーム力があった。

 58人をまとめ上げた中村は進学し、将来は体育の教員を志望。藤浪(阪神)らの12年センバツ優勝の日に入学した運命の学年は伝統を受け継ぎ、秋のコールド負けからはい上がり、大優勝旗にたどり着いた。その先頭に中村がいた。【堀まどか】

 ▼大阪桐蔭の夏の甲子園優勝は最近7年で3度。浅村栄斗らの08年、藤浪晋太郎、森友哉らの12年に次いで短期間での優勝ラッシュになった。夏の大会で7年間に3度以上優勝した学校は過去3校ある。31~33年の3連覇に加え37年にも優勝した中京商(現中京大中京)、24、29、30年の広島商、83、85、87年のPL学園だ。このうち中京商と広島商は戦前だった。全国の参加校が1000校以下、甲子園は22校以下で開催した時代だから、規模が違いすぎる。全国参加3000校を突破した78年以降では、PL学園に並ぶ2校目の快挙となった。

 年代別の勝率を見ると70年代は箕島、80年代はPL学園、池田、90年代は智弁和歌山の躍進が目立った。00年以降は34勝8敗(勝率8割1分)の大阪桐蔭が制圧を続けている。【織田健途】