プレーバック日刊スポーツ! 過去の5月12日付紙面を振り返ります。2006年の1面(東京版)は横浜石井琢朗選手の2000本安打でした。

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 174センチの小さな打者の大きな偉業だ。横浜石井琢朗内野手(35)が史上34人目の2000本安打を達成した。あと1本で迎えた11日の楽天戦で、先頭打者で二遊間を破る中前打を放ち、プロ18年目で到達した。投手で入団し、勝ち星(1勝)を挙げながら打者に転向しての2000本安打は「打撃の神様」川上哲治氏(巨人)以来となる。ドラフト外入団でプロの門をたたいた男は、挫折を乗り越えて歴史に名を刻んだ。

 こみ上げる感情を抑え切れなかった。1回の攻撃終了後に用意されたセレモニー。一塁フェンス前で両親と夫人から花束を受け取った石井の目から涙があふれた。横浜スタジアムは総立ちで「琢朗コール」。愛する家族の顔が男泣きを誘う。ショートの守備に就くと、涙がこぼれぬようしばらく天を仰いだ。

 初回の第1打席。試合開始からわずか6分で決めた。カウント1−1。楽天愛敬の外角121キロのフォークに反応した。「ピッチャーの足元を抜けたところで確信しました」。メモリアルの一打は二遊間を鋭く抜けた。一塁ベースを回る直前、右腕を振り上げてガッツポーズを見せた。

 笑顔になるはずの試合後のお立ち台でも言葉が詰まった。あの日の苦しみが脳裏をかすめた。「ここ何年、苦しい思いをして…。結果が出ず、チームにもファンにも迷惑を掛けた」。

 02年8月に1500安打を達成。「単純にあと3年で2000本と思った」。だが、翌年に思わぬ大スランプに陥った。野手に転向して初の2軍落ち。ヒット数96本は転向1年目を除けば自己ワースト。どん底で浮かんだのは「引退」の2文字だった。

 「すべてに打ち負けそうな自分がいた。本当に引退をする人というのはこういう気持ちになるんだなと思った」。結婚2年。「家族、子供ができ、受け身になった自分がいた。それが野球にまで影響して…」と振り返る。ファーム行きを決断した日、詩織夫人に後のないことを打ち明け、2人で夜通し泣いた。

 再びはい上がることができたのは、ファームのグラウンドのにおいだった。1カ月間、泥にまみれて自分に言い聞かせた。「ドラフト外入団。別にエリートでプロの世界に入ったわけではない。すべてはここから始まった」。原点回帰。翌04年158安打「1番ショート」復活につながった。

 創意工夫、打撃技術のあくなき向上心が支えた。バットを寝かせる構えは、昨年から採り入れた。「球界一の中日川上君のカットボールに対応できれば、ほかも対応できる」。妥協を許さず年々フォームを改良する。誰にも負けない練習量が支える。「練習はうそをつかない」。信じて歩む。

 「2000本はうれしいが、その後が大事です」。危機感もある。今年36歳、若手の台頭も著しい。それでも「そんじょそこらの苦労では音を上げられない。ボロボロになるまでショートを守りたい」。最終目標は「2500。プロの世界で最低でも成人式を迎えること」。通過点。そう自認する数字だ。力尽きるまで、小さなバットマンは夢を追い続ける。

 ◆石井琢朗(いしい・たくろう)1970年(昭45)8月25日、栃木県佐野市生まれ。足利工から88年にドラフト外で大洋(横浜)入り。新人の89年に投手として1勝したが、3年目の91年秋に首脳陣に直訴して野手転向。心機一転、本名の忠徳から、字画が良く、親しみやすい名前として改名。96年の大矢監督時代にサードからショートへコンバート。最多安打2回、盗塁王、ゴールデングラブ賞各4回、ベストナイン5回。01年の自身の誕生日にフジテレビアナウンサーだった詩織夫人と入籍。家族は夫人と2女。174センチ、75キロ。右投げ左打ち。

<入団秘話> 

 石井にプロの道を開いたのは当時のスカウト、江尻亮氏(63=横浜OB、元ロッテ監督)だった。入団交渉に訪れた日のことを今も覚えている。「お母さん(栄子さん)に泣かれてねえ。寒い日で、鼻水垂らして外で待ったなあ」。

 88年11月、栃木県佐野市にある石井家。「私はとる覚悟で来ました。家族で話し合ってください」。外で待つつもりで家を出ると、大きな泣き声が聞こえてきた。「お母さんは琢朗の大学進学を望んでいたからねえ」。東洋大の内定を覆す横浜入団になった。

 江尻氏が石井を初めて見たのは前年4月、のちに阪神入りした麦倉を見ようと訪れた練習試合、その相手だった。「タテに割れるカーブがよかった。マウンドに立つと大きく見えてね。足も速かった」。交渉で自宅を訪れ、さらに気に入った。「学生服でずっと正座して話を聞いていた。あんなにキチッとした高校生はまずいなかった」。庭先ではバットを振った際の深いステップ跡を見つけた。

 入団後は石井に何度も野手転向を訴えられた。まだ投手だった2年目、手のひらは素振りでマメだらけ。野手よりもすごかったという。しかし、賛成しなかった。「ヒザが弱かった。野手でやるよりも走ること、体づくりが先だった」。

 こんな指導も生きての2000本安打達成。「琢朗にはひたむきさがあった。私には未知な数を打ったあと、これからの『志』は何かな。先の人生もみてみたいね」。江尻氏の石井に向ける視線はこれからも変わらない。