20日、現役引退を表明したDeNA三浦大輔投手(42)が、日刊スポーツに手記を寄せた。横浜一筋25年。培ってきた「ハマの番長」の哲学とは。

<独占手記>

 こんなところで涙を流しては、と思っていた。会見の最後「ファンへ」と聞かれた。どうして泣く? 信じられなかった。

 かわいいファンのおかげで、ハマの番長というニックネームが大好きになった。学生時代、番長と呼ばれる人は確かにいた。ビー・バップ・ハイスクールは好きだったし、リーゼントでもある。でも、当初は「えっ… ちょっと古いかな」と感じていた。ある時、小さな女の子が「番長~! サインください!」って来てくれた。愛称で呼ばれ、みんなに覚えてもらえる選手は少ない。悪くないな、と思わせてくれた。

 大差で負けていても、試合が終わるまでずっと応援してくれる方がいる。2軍にいてつらい時、1軍の試合をテレビで見ると、ファウルの打球を追ってスタンドが映る。すると、18番のユニホームを着ている方がいる。引退の会見を終えて横浜スタジアムに戻ると、土砂降りの中で待っていてくれる方がいる。どれだけ助けられたことか。

 ドラフト6位。大した選手じゃない。横浜を、三浦大輔を応援して良かった。そう思ってもらえる選手になりたい一心でやってきた。いっぱい支えてもらった。だから正直に言わなくてはいけない。揺れた時もあった。

 日本一になった98年、あれだけたくさんの方に応援してもらった。年を重ねるにつれ「どこに行ってしまったんだろう」と思うようにもなった。どうしたら横浜が強くなるか。アマチュアの選手が「横浜に行きたい」と思ってくれるか。球団とたくさん話し合いをしていた08年、取得したFA権を行使した。

 金額は最初に話しただけ。半分は球団批判のような、疑問点を全部ぶつけた。「行使=出る」ではなかったが、期限までに、残りたいと思える気持ちにならなかった。当時も言ったが、阪神との気持ちは50%ずつ。悩んでいる最中にファン感謝デーがあった。最後に針を振らせたのはハマスタのすごい声援。残るからにはいいチームにしようと誓った。

 横浜の25年間は人生に似ていると思った。一番勝てた98年と05年でも12勝。打たれたことの方が圧倒的に多いし、覚えている。毎日楽しいばかりの人生などない。98年の日本一に今年のCS進出。本当にうれしいことって、何回かしかない。それ以外はしんどくて、悔しい。弱い自分を認めて、武器を増やそうと練習した。ファンはもがく姿も受け入れ、背中を押してくれた。だからこそ「いいことがあるんだ」と頑張れた。

 たくさんの出会いと別れにも人生を感じ、その縁が自分を支えた。

 盛田幸妃さん(※1)のシュートから強気を学んだ。肝機能障害に肘と肩の故障。横浜南共済病院の山田勝久院長に何度も助けてもらった。病を押して、最後の最後までチームを支えてくれた浅利光博さん(※2)。いつも優しい笑顔だった小山昭晴さん(※3)。コントロールが抜群で、引退後も打撃投手として黙々と仕事をしてくれた石田文樹さん(※4)…。全員にお礼を言いたい。

 恩人とも出会った。プロ1年目に小谷正勝コーチ(現ロッテ2軍投手コーチ)と出会えたから、ここまでやってこられた。軸足にじっくり体重を乗せたい理由で、2段モーションのフォームをやってみたいと伝えた。小谷コーチには、自分の意見に耳を傾け賛成し、一緒に技術を追求してくれる懐があった。

 初めて完封勝利できた94年4月22日の広島戦。ピンチの時、マウンド上で言われた。「己を知りなさい。自分はどういうピッチャーなんだ。力んでも150キロは出ないだろ」。己を知る。この言葉が自分の幹となり、いつも謙虚な気持ちにさせてくれた。

 引退の理由を「勝てなくなったから」と言ったのも、小谷コーチとの約束があったからだ。「何年も連続で勝ってるらしいな。じゃあ、頑張れ。でも、誰でもいつかはやめるんだ。勝っているなら続けなさい」と言われた。裏を返せば「勝てなかったらやめなさい」と言っている。勝負の世界の引き際を、教えてくれたのだと受け止めた。

 7月にやられ、9月にやられ、納得できた。最後にもう1回チャンスがあるが「いい時期だな」と思えた。そう思えたのは、後輩たちのおかげでもあった。

 何年か前から「オレはエースじゃない。他球団にはいい選手がいっぱいいる。こんなオッサン、小さな壁だ。オレが先頭に立ってやる」と言ってきた。刺激にして、負けないつもりだった。去年まではまだまだ、と思っていたが、今年は若い投手がいっぱい出てきた。

 CSを決めた19日の試合をベンチから見ていた。「いいチームになった」と感じた。来年は自分のチャンスがもっと少なくなる。突き上げに押し出されるのはプロとして健全で、非常にいいこと。寂しさと同じ分のうれしさがあった。

 積み上がった数字は長くやってきたからであり、誇れるものはない。ただ、足は遅いけど全力疾走していたから、毎年安打を打てたのかも知れない。全力でベースカバーに走ったから、失策が通算9個と少ないのかも知れない。野球教室で子どもに教える以上、うそはつけない。自分は弱い。だからこそ、決めたことを貫く。しんどくなってもやる。半端なことはしない。それが三浦大輔の筋だ。

 ファン。先輩、仲間。弱い自分を導いてくれた。どんな恩返しができるのか。今は分からない。勉強していかなくてはいけない。04年から、横浜スタジアムに来てくれた子どもたちにグラブをプレゼントしている。13年間で4800個ほどになった。自分を応援し、プレーから何かを感じてくれた子がグラブをはめて練習し、プロ野球選手になり、横浜スタジアムで再会できたら、こんなにうれしいことはない。(横浜DeNAベイスターズ投手)

 ※1 87年大洋ドラフト1位。15年10月、転移性悪性腺腫のため死去(享年45)。

 ※2 76年大洋テスト入団。80年引退後は球団職員。チーム統括本部GM補佐・マネジャー統括を務めていた今年9月10日、胃がんのため死去(享年61)。

 ※3 78年大洋ドラフト3位。92年引退後は、00年までコーチを歴任した。05年11月、白血病で死去(享年45)。

 ※4 88年大洋ドラフト5位。08年7月、直腸がんのため死去(享年41)。