野球部に異動となった04年の秋、最初に担当した球団が横浜だった。前任者との引き継ぎ事項に「原稿が何もなくて苦しい時は、三浦にお願いすること」と書いてあった。

 当時のベイスターズは露出が多いとは言えず、雑感という15行ほどのベタ記事がほとんど。早速、引き継ぎを実践することになった。12月に三浦がトークショーをするという。前日に「リーゼントをやめて下さい。ファンへのおわびで」と頼んだ。02年から4、5、6勝と勝てていなかった。

 自己都合。しかし、引き継ぎの詳細には「『勝てなかったらリーゼントをやめる』は、毎年聞いて原稿にしている」とある。しばし沈黙の後「…デカくなるの?」と聞かれた。無責任に「間違いないです」と答えると、三浦は翌日、サラサラヘアで現れてファンを驚かせた。

 04年12月13日の記事がパソコンに残っている。

----◇--◇----

 「ハマの番長」撤回? 横浜市内のデパートで行われたトークショーで、三浦がリーゼントでなく、前髪を下ろしたスタイルで登場した。公の場では初披露。「今季の成績や、ストライキなどでファンに迷惑を掛けたおわびです」と照れくさそうに話した。プレスリーをこよなく愛し、携帯の着メロは嶋大輔「男の勲章」。代名詞を簡単に手放せる訳もなく「(リーゼントは)髪の毛が無くなるまで続ける。来季1カ月勝てなかったら、気分転換でまたやろうかな」。

----◇--◇----

 結局、ベタ記事である。「記事、デカくないじゃん!」「すいません」。詰め寄られた顔が笑っている。思えば駆け出しのころ、三浦にはこんなお願いばかりだった。

 2月の沖縄・宜野湾キャンプ。仕事を終え午後10時30分ころにチーム宿舎を離れようとすると、駐車場の暗やみから「ヒュッ、ヒュッ」と音が聞こえた。見ると三浦がシャドーピッチングをしている。「ホテルのガラス張りを利用して、フォームを確認しているんだよ」と汗だくである。

 「写真を撮らせて下さい」と言っても、記者の持っている当時のデジカメは、暗やみではまったく戦力にならない。何度もやり直し、ありえない接写で、ようやく判別可能の写真が撮れた。

 「しかし、新聞に載るか? 単なるシャドーーピッチングだろ」と三浦。「大丈夫です。だって、こんな暗い中で、遅くまで」と私。満を持して会社に報告すると「それ、三浦にとっては当たり前なんだ。毎年この時期、連絡来るけど」…未掲載である。「記事、ないじゃん!」「すいません」。それでも三浦は笑ってくれた。

 当時のベイスターズは非常に家族的な雰囲気があり、遠征中、移動バスに記者の同乗を許可してくれるほど距離が近かった。三浦はそのど真ん中にいた。「勝てなくて心配だから」という理由で自宅に行っても「悪いなぁ」と怒らない人。彼を取材した経験のある記者は、この種の話を必ずいくつか持っている。

 担当を離れても記者の顔を忘れない。球場で挨拶するたびに懐かしい気持ちになる。そんな当たり前も終わる。引退の会見で「ファンへ」と問われ、2度泣いた三浦。向こう側にいつもファンを見ていたから、あんなに優しかったんだ思う。ありがとうございました。【宮下敬至】