「炎のストッパー」が殿堂入りした。球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが13日、野球体育博物館で発表され、競技者表彰のプレーヤー部門で、脳腫瘍のため93年に32歳の若さで他界した故津田恒実氏が選ばれた。広島の抑え投手として活躍した津田氏は、闘志あふれる投球でファンを魅了した。津田氏のチームメートで、通算213勝を挙げた北別府学氏(54)も同時に選出された。津田氏の19度目の命日にあたる7月20日の球宴第1戦(京セラドーム大阪)の試合前、表彰式が行われる。

 ◆津田恒実(つだ・つねみ)1960年(昭35)8月1日、山口県生まれ。南陽工(山口)で78年春夏甲子園出場。協和発酵を経て81年ドラフト1位で広島入団。1年目の82年に11勝6敗で新人王。86年から抑えに転向し22セーブで5度目の優勝に貢献、カムバック賞を受賞。89年に12勝5敗28セーブで最優秀救援投手。150キロを超える直球で「炎のストッパー」と呼ばれた。通算成績は286試合、49勝41敗90セーブ、防御率3・31。91年に体調の悪化で引退。93年7月20日、脳腫瘍のため32歳で逝去した。現役時代は181センチ、79キロ。右投げ右打ち。

 ◆怪物

 145キロの速球を誇った南陽工(山口)時代、中国地方の怪物として名をもじり「ツネゴン」と呼ばれた。

 ◆苦難の時期

 1年目の82年に広島初の新人王も翌年右肩痛、3年目から右手の血行障害に悩まされる。84年右中指の靱帯(じんたい)移植手術。85年、背番号を15から14に、登録名も恒美から恒実とし心機一転を図る。

 ◆復活

 86年から守護神で復活。150キロ台の直球を全力で投げ込む姿から炎のストッパーと呼ばれ、リーグ優勝に輝いた。

 ◆因縁の巨人、原辰徳

 高校時代にドラフト外入団を誘われた巨人相手には燃えた。プロ初セーブは84年5月4日の巨人戦。86年9月24日、津田の球をファウルした原は左手首を骨折。91年4月14日は原に適時打を浴び1死も取れず9球で降板、敗戦投手に。これが最後の対戦打者だった。

 ◆突然の病と死

 脳腫瘍が判明した91年5月、周囲の動揺を避け球団は「水頭症」と発表、準支配下選手扱いに。闘病生活に入るとし同年11月に引退発表。93年7月20日、オールスター第1戦直前に訃報が流れた。

 ◆その後

 94年、広島市民球場のブルペンに津田プレートが設置される(現在はマツダスタジアムに設置)。00年には晃代夫人の著書「最後のストライク」がドラマ化、岸谷五朗が津田役に。長男大毅さんは元広島の東京国際大・古葉監督の下でプレー、昨年卒業。