元巨人監督で日刊スポーツ評論家の川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が、28日午後4時58分、老衰のため、東京・稲城市の病院で死去した。93歳だった。

 川上氏の薫陶を最も身近で受けてきたのが、川上巨人の正捕手で元西武監督の森祗晶氏(76=日刊スポーツ評論家)だ。現役、監督時代はもちろん、ユニホームを脱いでからも交流を続けてきた。尊敬と親しみを込めて「オヤジ」と呼ぶ川上氏の死を悼み、その偉大さと思い出を語った。

 人生において、大きな柱を失った気持ちだ。私がユニホームを脱いでからも毎年お会いし、野球談議をさせていただいた。今年2月にご自宅にお邪魔した際、お元気そうで安心していたのだが。残念でならない。

 1955年(昭30)の巨人入団以来、川上さんの現役、コーチ、監督時代をずっとそばで見てきた。言い尽くせないくらい思い出がある。川上さんが監督に就任なされて1年目の61年、ベロビーチ・キャンプでのことだ。練習が終わると私は毎日、川上さんの部屋に呼ばれた。川上さんが持ち込んだ電気釜で米をたき、新聞紙を皿代わりにして、ノリのつくだ煮と一緒にごはんを食べた。そして「勝つためにチームプレーがいかに大事か」「捕手のサインひとつでみんなが動くんだ」と、こんこんと説かれた。

 勝負に厳しかった。その年の南海との日本シリーズだ。2勝1敗で迎えた第4戦が雨で中止になった。休みになるだろうなと思ったら全員多摩川に集合させられた。グラウンドは水浸しで練習ができるような状態ではなかった。しかし川上さんは、外野の芝生のところに打撃ケージをもってこさせ、水浸しの内野に向かって打撃練習をさせた。ボールがぬれると、炭火をたいた鉄板の上で乾かし、また使うの繰り返し。「自分たちはこれだけのことをやった。負けるはずがない」という気持ちを持たせたかったのだろう。そのシリーズは4勝2敗で日本一になった。

 随分、言いたいことも言わせていただいた。ある試合で投手とどうしてもサインが合わず、おかしいなと思っていたら、ベンチのあるコーチから1球1球、投手に向けてサインが出ていた。試合はサヨナラ負けし、腹が立ったので、翌朝、川上さんの家に押し掛けた。「あれでは誰が捕手をやっても同じじゃないですか」と食ってかかると、川上さんは「悪いことをした。本当に申し訳ない。金輪際、バッテリーのことはすべて任せる」と頭を下げられた。あの大監督がだ。すごいと思った。その日の試合で完封し、それから一切、注文をつけることはなかった。

 私が西武の監督に就任してからも事あるごとに気遣っていただいた。連敗が続くと「おめでとう」と電話がかかってくる。「これだけ負ければこれ以上悪くはならんだろ」とおっしゃるので、私も「あと2つ3つ続きますよ」とやり返す。そういうやりとりをしていると、気持ちが楽になってくる。後日、川上さんに聞くと「私も監督時代、連敗が続くと梶浦逸外老師(川上氏が私淑した岐阜・正眼寺の禅僧)から、おめでとう、という電話をよく受けた」と笑っていた。世間一般には冷たい、厳しいイメージを持たれていたかもしれないが、常に相手の立場を考え、親身になってくださる方だった。

 西武では9年間で8回優勝できたが、続けて勝つことの難しさを実感した。組織を硬直化させないためには、チームを活性化させるには何をしなくてはいけないか。それは、七転八倒の苦しみだった。

 私の現役時代、毎年のように有望な新人捕手が入団してきた。私という正捕手がいるのに、とその時は思ったものだ。川上さんはトレードで高倉さん、関根さん、森永さんといった他球団の主力選手も引っ張ってきた。外部の血を取り込み、競争をあおり、レギュラークラスを慢心させないために刺激を与えた。私も監督になってから、その理由がよくわかった。しかも川上さんは、球界の盟主で常に勝利を求められる巨人でV9という偉業を達成されたのだから、本当に頭の下がる思いだ。

 これだけ大きな財産を残された方に、巨人退団後は野球界のなかにふさわしいポジションを与えられなかったことは残念でならない。ヤンキースの名監督だったジョー・トーリ氏が大リーグ機構の副社長で活躍しているように、川上さんにそれなりの立場を用意できていたら、今の野球界はもっと良くなっていた。

 これはあまり人に言ってこなかったが、V9時代、大阪で優勝が決まると、川上さんから「オイ、行くぞ」と声がかかる。宿舎のあった芦屋から車を飛ばし、行き先は京都の祇園。2人だけの祝勝会で目いっぱい酒を飲み、目いっぱい喜びに浸った。私にとって、川上さんは師匠、いやちょっと違う、オヤジ、本当にオヤジだった。ご冥福を心からお祈りしたい。