小学校に入学する前後だったので、かすかな記憶だ。だが、確かに頭に残っている。1981年前後、千代の富士が横綱に駆け上がろうとしている時、敢然と立ちはだかっていた北の湖の姿を。

 優勝24回。子供のころは、大横綱と言えば、北の湖だった。大好きだった千代の富士も31回の優勝のうち21回が、北の湖の引退後。もしも、全盛期が重なっていたら、どうなっていただろうか…。

 日刊スポーツに就職して、初めて北の湖を取材したのは、相撲担当になる前の2011年2月だった。八百長問題で春場所の中止が決まり、春場所担当部長だった北の湖親方が大阪府市長会に出席し「深くおわび申し上げます」と、陳謝した。府内33市長の前で、背中を90度近く曲げ、深々と頭を下げていた姿は、本当にショッキングだった。「子供のころの大横綱が、あそこまでするなんて」という思いがあった。と同時に、現役時代の「憎らしいまでの強さ」とは違う、実直さ、誠実さも感じた。

 12年9月から相撲取材をすることになったが、北の湖理事長と接する機会は少なかった。場所中の大関、横綱戦は全15日間、理事長室に記者を招き入れて、解説してくれるのだが、その取材はベテラン記者が担当することが多かったからだ。

 それでも、思い出はある。13年秋の報道陣との親睦会。宴会の席で、恥ずかしながら漫才の余興をすることになった。弊社記者の相棒とわずかな時間で打ち合わせして臨んだのだが、内容は散々で、失笑を買い続けた。がっくりして、漫才後はホロ酔いで親方衆にあいさつまわりをしていたが、北の湖理事長は優しかった。漫才の批判などせず、笑顔で乾杯を交わしてくれた。

 その直後、関係者から聞いた言葉が忘れられない。「理事長、漫才の時に声を出して笑ってましたよ。『ボクシングの○○とKOはセットちゃうけど、大相撲と満員御礼はセットや』っていうセリフの時です。アハハハッて」。救われたという思いが胸中を覆ったのは、言うまでもなかった。

 横綱北の湖と、理事長北の湖が持っていた、強さ、誠実さ、優しさ。これからも、しっかりと心に刻んでおきたい。【木村有三】