船村徹さんが逝った。いや、無二の親友の高野公男さん(享年26)とやっと再会できる旅に出たのだ。

 船村さんを語る時、絶対に欠かせないのが作詞家の高野さんである。不朽の名作「別れの一本杉」(55年)のコンビである。

 茨城県笠間市生まれの高野さんは東洋音楽学校の2歳先輩。船村さんは、名前の由来となった栃木県船生村(現塩谷町)生まれで、2人とも音楽家を目指して上京した。売れない時期、バイトをして励まし合った。高野さんは言った。「東京に出た人間はいつかふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作詞する。お前は栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西条八十もきっと抜ける」。

 <歌詞>必ず東京へ ついたなら 便りおくれと 云(い)った娘(ひと)

 大ヒットした翌年の56年9月8日、高野さんは26歳の若さ肺結核で亡くなった。船村さんはほぼ毎週末、水戸の入院先に見舞いに行った。死後、高野さんの作詞ノートに、清書された1枚の原稿用紙が挟まっていた。船村さんにあてた遺作「男の友情」だった。

 <歌詞>男同士の誓いなら 忘れるものかよ この胸に 抱きしめながら いる俺さ

 船村さんは高野さんの分を生きると決意した。2人で頑張ったハングリー精神を忘れぬように「演歌巡礼」と称して全国を回った。自分の誕生日に行う「歌供養」も、ヒットせず消えて行った多くの歌のためだけでなく、志半ばに倒れた高野さんの遺志と信じた。95年に紫綬褒章を受章した際も「高野の代理人として」と話した。文化勲章を祝う会でも、高野さんとの日々が紹介され、「男の友情」が歌われた。

 高野さんの墓には、船村さんの石碑がある。

 友よ 土の中は 寒いのだろうか 友よ 土の中には 夜があるのだろうか もしも 寒いのならば 俺のぬくもりを わけてあげたい もしも 夜があるのならば 俺の手で灯りを ともしてやりたい 友よ 俺の高野よ こおろぎの よちよち登る 友の墓石

 船村メロディーに、日本人の心に響く独特の哀愁や郷愁を感じるのは、高野さんの言った言葉に、原点がある。【笹森文彦】