「第7世代」と呼ばれる歌手が活躍しています。ニッカンスポーツ・コムでは「われら第7世代!~演歌・歌謡曲のニューパワー~」と題し、音楽担当の笹森文彦記者が、気鋭の歌手を紹介しています。前回に続いて女性シンガー・ソングライター蘭華(らんか)の登場です。

花壇を背に笑みを浮かべる蘭華(撮影・河野匠)
花壇を背に笑みを浮かべる蘭華(撮影・河野匠)

蘭華は和を感じる歌詞と民族楽器を取り入れたオリエンタルなサウンドで、独自の世界を築いている。透明感ある歌声で、癒やし系シンガー・ソングライターともいわれる。

瀬戸内海に面した城下町として知られる大分県中津市で生まれた。祖父母は中国・福建省から移住した華僑3世。祖父母は洋品店を営み、父が継いだ。父母と弟の4人家族。週末は、歌好きの両親に連れられて、カラオケボックスに行った。5歳の時、旅行先の店で父とデュエット曲「居酒屋」を歌うと、店員に「上手ね」と褒められた。人前で歌った最初の記憶だ。

蘭華 毎年、高校の文化祭のステージで、小室哲哉さんの曲やCHARAさん、UAさんの曲などを歌っていました。進路はアナウンサー志望で、なれる可能性のある東京の大学に進学しようと思っていました。

蘭華は高校時代、文化祭のステージで歌っていた(提供写真)
蘭華は高校時代、文化祭のステージで歌っていた(提供写真)

当時はテレビ東京系オーディション番組「ASAYAN」が人気で、モーニング娘。や鈴木あみ、CHEMISTRYらを輩出していた。歌手志望ではなかったが「少女が夢を描いてデビューしていく姿」にひかれ、毎週見ていた。

蘭華 高校3年生の時に、たまに一緒にカラオケに行く友人から「一緒に出よう」と大分で行われるカラオケ大会に誘われました。友人は準優勝で私は入賞でした。初めて歌で賞をいただいて「ASAYAN」のように自分も歌手になれるかなと勘違いしてしまいました(笑い)。センター試験の時期だったんですけど両親に「歌手になりたい。大学進学はやめる」と言いました。

「有言実行」「猪突(ちょとつ)猛進」が座右の銘。東京に行けば歌手になれると信じていたが、母親は猛反対した。

蘭華 学校に行かないで上京することを許してくれなかった。ルーツが中国にあるので、かつて母が通っていた東京の中国語専門学校に進学しました。勉強のためならと(上京を)認めてくれて、学費と寮のお金は出してくれました。

カラオケ大会で準優勝した友人も「歌手になろう」と一緒に上京した。その友人に誘われて行ったクラブで、1カ月後にはイベントで歌うようになった。

蘭華 歌手志望者に歌わせてくれる場なのでノーギャラでした。生活費のために、東京ドームの売り子や試食販売などいろんなことをやりました。夜のイベントで歌った時は遅刻しがちになって進級できませんでした(笑い)。

この状況を知った母親から「帰って来なさい」と怒られた。大分に戻れば再び上京できるか分からない。歌手の道が絶たれると思った。選んだ道が北京留学だった。

蘭華 まず故郷に帰らなくていい方法を考え、それが北京留学でした。母は専門学校卒業後、慶大でも学び、今は大分で中国語の先生をしています。私に対して、自分たちのルーツでもある中国語を学んでほしいという気持ちがあったので、(私の提案に対して)それだったらと(了承してくれた)。私としては半年後ぐらいに東京に帰ってくればいいと思っていました。

北京語言大学に留学したが、まもなく北京市内のクラブで歌うようになった。宇多田ヒカルの曲や「魂のルフラン」など日本のアニメソングを歌っていた。心配してわざわざ様子を見に来た母親は、娘が生き生きと歌う姿を見て「この子には、もう何を言ってもむだ」と感じ、口出しをしなくなったという。この頃のことを母親に尋ねると「親だからと言って、差し伸べてはいけない手もある」と思っていたという。

地元に戻らないための手段だった北京留学だが、予想外の収穫を手にする。各国の若者と交流し、民族楽器と出合う。これが後年、サウンドにグローバルな世界観が芽生えていく伏線になった。

幼い頃からアイデンティティー(自己存在)を考えて生きてきた。周囲からの言葉に思い悩むこともあった。

蘭華 大分で生まれましたが、小学校1年の時、同級生に「中国に帰れ」と言われた。この町で生まれたのに、なぜ帰れと言われるのかと思いました。中学でも「うるせえ、中国人」とののしられた。ある日、そういう様子を見ていた先生が、3分間スピーチをする機会を私に与えてくれました。私は「おじいちゃん、おばあちゃんは中国から来て、日本を愛して、一生懸命頑張って生きてきました。尊敬しています」と話しました。以後、いじめはピタリとやみました。

のちにアイデンティティーを「和」に求めたこともあって、自然に座禅や写経、神社仏閣巡りに興味を持った。北京留学で世界の空気を感じたことでよりいっそう「和」を意識するようになっていく。これがソングライターとして、和テイストあふれる歌詞を紡ぎ出す礎となっていく。

帰国後、アルバイトとオーディション、独学での曲制作の日々が始まった。数年が過ぎ、かつてクラブで歌っていた時に知り合った人が、大手芸能事務所を紹介してくれた。自主制作でアルバムを発表し、収録曲がいくつかのテレビ番組のテーマ曲に採用された。それでも大手レコード会社からのメジャーデビューのチャンスはまだなかった。

蘭華 手を差し伸べてくださった社長さんはもちろん、「作詞の比喩表現を学びなさい」と言ってくれたマネジャーさん、その言葉を機に通うようになった浅草の俳句の会の師匠にも心から感謝しています。

蘭華(左)はライブに足を運んでくれた俳句の師匠、薬師川麻耶子さんと記念撮影
蘭華(左)はライブに足を運んでくれた俳句の師匠、薬師川麻耶子さんと記念撮影

事務所を移籍して1年後の15年7月、両A面シングル「ねがいうた/はじまり色」でメジャーデビューを果たした。かつての所属事務所の後押しもあった。恩師への感謝を歌った「ねがいうた」は、同年7月度の有線問い合わせランキング(J-POP部門)で10位、翌8月度の問い合わせランキング(歌謡・演歌部門)でも10位になった。集計元の有線放送キャンシステムによると、同一曲の「J-POP」「歌謡・演歌」両方へのランクインは前例のない快挙だという。「ねがいうた」は代表曲の1つとなった。

蘭華のデビュー曲「ねがいうた/はじまり色」のジャケット
蘭華のデビュー曲「ねがいうた/はじまり色」のジャケット

シンガー・ソングライターとして、愛や命、人生をテーマに曲を作り、歌っているが、人生の転機となった出来事が大きく影響している。それは11年3月に発生した東日本大震災と、最愛の父の他界だった。(つづく)

◆蘭華(らんか) 大分県生まれ。高校卒業後、に中国語専門学校に進学。14年に初シングル「花時」発表。15年に両A面シングル「ねがいうた/はじまり色」でメジャーデビュー。20年に両A面シングル「ねがいうた/愛を耕す人」発表。21年に新曲「愛しい涙」配信リリース。出雲観光大使。特技は温泉ソムリエ、書道七段。