<第1部国立で輝いた男たち(4):韮崎FW羽中田昌>

 国立は人生のホームスタジアム-。車いすのサッカー指導者、羽中田昌(49)は、山梨・韮崎高時代に3年連続で国立のピッチに立った。プロ選手を夢見ていたが、交通事故で半身不随の身となった。そのハンディを乗り越え、障害者として初めてS級指導者ライセンスを取得。サッカー監督としての夢を追い続ける。

 人生最後のプレーは、国立競技場だった。

 1983年(昭58)1月8日、決勝の清水東(静岡)戦。小雨が降る寒空の下、国内サッカーの新記録となる6万1000人の大観衆が詰めかけた。0-3で迎えた後半15分、韮崎は羽中田を投入。大歓声が起こった。約40メートルをドリブルで駆け抜ける。「ハチュウダ!

 ハチュウダ!」。テレビの実況が連呼する。高校2年の終わりに急性腎炎で病床に伏し、9カ月間もサッカーができなかった。体は完治していない。医師から「プレーは20分以内」と制限されての大会だったが、体は軽かった。

 「羽がはえたかのようにどんどん走れた。ここまで動くのかなっていう。国立の雰囲気だったり、空気だったり。不思議な力が働いた。そのあとプレーができないことが(運命で)決まっていて、最後に思う存分、楽しんでプレーしろって神様が与えてくれた時間だったのかもしれませんね」

 予備校に通っていたその年の夏、人生は暗転した。乗っていたバイクのタイヤがパンクし、ガードレールに激突。脊椎損傷で半身不随となった。国立を軽やかに駆けた「羽」はもがれた。「自分には何も残ってない」。自暴自棄になった。だが失意のどん底でサッカーが力となった。

 「何も残ってなくはなかった。サッカーの思い出だったり、出会いだったり。すごくたくさんのものを、サッカーが僕に残してくれていた。それを時間かけて実感した」

 93年5月15日、Jリーグ開幕戦を国立で見た。自身の記憶と重なった。「もう1度あそこへ帰りたい」。夢が芽生えた。指導者として国立に立つことだった。95年に公務員の職を辞し、スペインへ渡った。そのコーチングスクールで、車いすを理由に正規入学を断られた。その時、高校の同級生で苦楽を知る妻まゆみさんの言葉が忘れられない。「諦めなかったら、目標は逃げないよ」。その後の多くの挫折にも諦めなかった。そして06年、念願のS級ライセンスを取得。その年の暮れ、東京・暁星高コーチとして全国大会の開幕戦で国立に戻った。だからこそ、こう言う。

 国立は、自分にとって人生のホームスタジアム-。

 「あの舞台は目指すことに価値がある。その一瞬、一瞬が、大事な高校3年間を掛け替えのないものにしてくれる。そういう場所だと思う。ピッチに立たなくたっていいんです」

 最後にプレーした日から31年がたち、国立開催は最後の時を迎える。だが感傷に浸ることない。

 「なくなることで、自分が目指してきた夢とか目標の思い出がより濃いものになる。新たな目標を持とうと思うきっかけにもなるし、最近は夢とか目標を忘れていたことを反省したりとか。もう1回しっかり今を、人生を楽しもうというところにつながっていく」

 過去ではなく、羽中田は未来を見る。目標は「Jリーグの監督」だ。夢中で国立を駆けたあの日の少年は、今も夢の中を走り続けている。(敬称略)【佐藤隆志】

 ◆羽中田昌(はちゅうだ・まさし)1964年(昭39)7月19日、山梨県甲府市生まれ。韮崎高のFWとして全国高校選手権で1年で3位、2、3年で準優勝。日本ユース代表候補。95年に山梨県庁を退職し、バルセロナへ移住。スペイン協会公認「カタルーニャ・コーチング・スクール」に通う。00年帰国。02年から東京・暁星高コーチ、04年にはU-18日本代表コーチ。08~09年に当時四国1部カマタマーレ讃岐、12年に関西1部奈良クラブの監督。現在はスカパーの解説者。家族は、まゆみ夫人。