元サッカー日本代表監督でJリーグ浦和初代監督の森孝慈氏が17日午前9時21分、腎盂(じんう)がんのため東京・目黒区の病院で死去した。67歳だった。早大、三菱重工でMFとして活躍し、68年メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献。監督として日本代表を86年W杯メキシコ大会アジア最終予選まで導いた。Jリーグ浦和の創設に尽力し、初代監督を務めるなど「レッズの父」としても知られる。葬儀、告別式は22日午前11時から東京都世田谷区瀬田3の6の8、公益社用賀会館で。喪主は妻晴美(はるみ)さん。

 突然の悲報だった。一昨年に喉頭がんの手術を受けたが、順調に回復。1カ月前に膵臓(すいぞう)への転移が見つかって目黒区の病院に入院したが、経過は順調で18日にも退院の予定だった。ところが、容体が急変してこの日帰らぬ人となった。遺体は昼すぎに世田谷区内の葬儀場に運ばれ、実兄の健兒氏ら家族が付き添った。妻晴美さんは「ひどい痛みもありましたが、最後はそれもなくなって…」と、悲しみをこらえて話した。

 5月にメキシコ五輪代表の故八重樫茂生氏の葬儀に出席、6月2日にはメキシコ五輪監督の故長沼健氏をしのぶ「志の会」で旧友と歓談した。ダイエットした釜本邦茂氏を見て「やせちゃって大丈夫か」とジョークを飛ばすほどだった。同11日には大宮-浦和戦も観戦、クラブ関係者に元気な姿を見せていた。それだけに駆けつけた誰もが、大きなショックを受けていた。

 選手、指導者、そして裏方として、日本サッカー界に偉大な足跡を残した。日本代表の中盤の要として68年メキシコ五輪フル出場。釜本、杉山隆一らとともに、銅メダル獲得の原動力となった。「森ちんも嫌いじゃなかったから、よく飲んだね。本当にサッカーが好きで、朝まで技術や戦術の話。もう1度、サッカーをさかなに飲みたかったね」と杉山氏は話した。

 日本代表監督として若手選手を積極的に起用、DF加藤久、MF木村和司を中心としたチームは抜群の結束力でW杯まであと1歩と迫った。韓国には敗れたものの、今のようにアジア代表枠が4・5あれば初出場の好成績。主将だった加藤氏は「森さんのために、は大きかった。まだ頑張ってほしかった。退院したら一緒に東北の被災地に行こうと言っていたのに」と悲しみをこらえて言った。

 Jリーグ発足時には三菱自動車サッカー部の総監督として奮闘。プロ化に消極的だった会社側を説得し、ホームタウンとして浦和に受け入れを要請した。三田の同部の部室から毎日浦和に通い、移転が決まるとすぐに引っ越した。「森さんが自分で動き、周囲を説得してくれた。もし森さんがいなければ、今のレッズはなかった」。当時同部のマネジャーだった佐藤仁司氏は思い出を口にした。

 選手としては釜本氏らの陰に隠れ、監督としては代表でW杯出場を逃し、浦和と福岡でも好成績を残せなかった。それでも、選手として指導者から愛され、監督として選手、サポーターから慕われた。日本サッカー界に貢献し、誰からも好かれた「森ちん」は、あまりに早く、突然に天国へと旅立っていった。

 ◆森孝慈(もり・たかじ)氏

 1943年(昭18)11月24日、広島・福山市生まれ。修道高3年時に国体、選手権2冠、早大では1年から活躍し、天皇杯で2度優勝した。67年に三菱重工入りし、日本リーグ1回、天皇杯2回優勝。64年東京五輪代表に選出され、68年メキシコ五輪銅メダルに貢献するなど日本代表で国際Aマッチ56試合2得点。78年の引退後、西ドイツ留学を経て80年に日本代表コーチ就任、81年から同監督を務めた。85年10月にはW杯メキシコ大会アジア最終予選に進出。加藤久、木村和司ら「森ファミリー」を率いて、W杯にあと1歩まで近づいた。その後は三菱重工総監督としてプロ化、Jリーグ参入に尽力し、浦和初代監督に就任。横浜MのGM、福岡の監督、GMを経て02年に浦和にGMとして復帰。オフト監督を招き、積極的な補強で強豪クラブへの下地を築いた。