<東京マラソン>◇26日◇東京都庁前-東京ビッグサイト(42・195キロ)

 無職ランナーが、夢舞台の切符をつかんだ。藤原新(30=東京陸協)が日本歴代7位の2時間7分48秒で日本人最高の2位に入り、ロンドン五輪代表の座を決定的にした。08年北京五輪は補欠、その後はマラソンに専念するために実業団を退社したが、故障とスポンサー企業との契約解除という苦難続きで市民ランナーに。崖っぷちで臨んだレースで、14位に沈んだ公務員ランナーの川内優輝(24)との争いも制し、どん底からはい上がった。マイケル・キピエゴ(28=ケニア)が2時間7分37秒で初優勝した。

 黒い弾丸のような猛ダッシュで、漆黒のユニホームの藤原がゴールに飛び込んだ。キプロティチを振り切り、両手を広げ、苦しみを抜けた笑顔とともに。

 藤原

 最後の200メートルは「200万円スパート」です!

 賞金に目がくらんで必死でした。

 貯金を切り崩して走ってきた。2位400万円、3位200万円。唯一の収入源におどけたが、根底には五輪への熱い思いが-。

 藤原

 所属なしで、不利かもしれない。でも五輪の目標が僕を動かしてくれたんです。

 スタートから冷静だった。1キロ3分ペースを刻む第2集団最後尾に位置。元JR東日本所属らしく「今日は(車掌のように)最後方からと思って」と展開を“点検”。川内が23キロ過ぎに離脱すると、作戦通りにペースメーカーが外れた25キロ過ぎに勝負を仕掛け、前に出る。「ついてきてよと」と左手を後続に振って促しても、反応はない。戻るか、押すか。一瞬迷ったが「日本記録を狙っていた」と強気に前を追った。

 30キロ過ぎからは左足のまめ、両足けいれんに襲われたが、「ハイレ(ゲブレシラシエ)の背中をみたら元気が出た」。37キロ付近で「皇帝」ゲブレシラシエが視界に。「抜ける!」。興奮で足の不安が消えた。41キロ過ぎ。「(報道陣が)写真の1枚でも撮ってくれるかなと。ニタ~としてしまいました」と一気に抜き去った。40キロ以降の6分41秒は出場選手中最速。日本陸連の坂口男子マラソン部長も「後半の走りなど評価する点は多い」と好印象だった。

 10年3月にマラソン専念のため、駅伝も走る必要があるJR東日本を退社。健康食品を扱うスポンサー企業の支援を受け、1人で走り始めた。しかし、翌11年2月の東京は左ふくらはぎ痛の影響で57位。右足足底筋膜炎も患い、7~9月は走れず。スポンサー企業の経営問題も浮上して、10月末で契約解除となった。

 「収入もなく、故障も…」。逆境を支えてくれたのは家族だった。昨年10月5日に優子さんと結婚。「最悪な時に1人ではなかったのが強かった」と姉さん女房に感謝する。拠点を1泊3食付き6000円の国立スポーツ科学センターに。外食なども控え、富山では妻が働いてくれた。

 練習ではライバル川内が実践する、試合並みの高い負荷をかける「川内メソッド」も導入した。今月5日の香川丸亀ハーフで自己ベストを43秒も更新し、自信をつかんだ。その川内には「ロンドンで一緒に走れたら」とおもんぱかった。

 好不調の波が激しく「ホームランか三振か」と言われた姿はもうない。ゴール後、富山の妻に電話。応対は普段と変わらなかった。

 藤原

 当たり前、意外なホームランじゃない、という認識でいてくれたから。うれしかったですね。

 ロンドンで“打席”に立つ権利はつかんだ。誓うのは、夢舞台でのもう1本だ。【阿部健吾】<藤原新(ふじわら・あらた)アラカルト>

 ◆生まれ

 1981年(昭56)9月12日、長崎県諫早市生まれ。

 ◆経歴

 諫早高-拓大-JR東日本。拓大時代は2度、箱根駅伝出場。01年は1区10位、03年は4区4位。マラソンでは08年北京五輪は補欠も、翌年世界選手権で代表デビュー。

 ◆下着ランナー

 2月5日の丸亀ハーフでランニングパンツを忘れ、アンダーショーツ姿で快走。07年世界選手権銅、08年北京五輪6位のロスリンをまねたと言い「これじゃあ、下着ランナーでしょ」。この日も同じいでたちで走った。

 ◆イメトレ

 東京マラソンの上位3傑の副賞はBMW。「自分がBMWを乗り回している姿を妄想し、練習に励んだ」という明るいキャラクター。

 ◆家族

 妻優子さん(年齢未公表)、長女葵衣(あおい)ちゃん(1)。

 ◆サイズ

 167センチ、54キロ。