「日本代表として走るのが夢だった。世界選手権に出られるものなら出たい」

 13年4月、17歳の桐生祥秀は10秒01を記録して、世界選手権モスクワ大会の派遣設定も突破。「憧れの選手」というウサイン・ボルトとの対決を夢見た。5月には人生で初めてのパスポートを取得した。

 桐生はことあるごとに「9秒台は出ますか?」と質問された。多い時で1日4回以上、この年だけで確実に100回以上は同じ質問をされたと記憶している。のちに「先週と同じ質問なら、先週と同じコメントを使ってほしいと思ってました。だって1週間で状況は変わらないですから」と振り返ったことがある。ただ17歳の桐生は律義に、根気強く「9秒台を期待されることはうれしいことです」と何度も繰り返した。

 大きな期待が寄せられたが、日程の問題が浮上した。まだ個人タイトルがなかった高校総体は7月30日~8月3日に大分で、世界選手権は8月10日~18日にモスクワで開催。試合間隔はわずか1週間で、モスクワへの移動も含む。その両立は困難で、けがのリスクもあり、どちらかに絞るしかない-。大方の見方は「高校生日本一よりも世界の舞台だろう」だった。

 しかし京都・洛南高の柴田監督の考えは違った。「高校生が高校総体を通らないという選択肢はない」という強い信念があった。

 高校総体は国内でユニークな大会だ。全国中学体育大会も、日本選手権も、出場に必要なのは資格記録で、ある基準タイムを出せばOK。だが高校総体は都道府県大会→ブロック大会(近畿大会など)→全国大会と勝ち上がる必要がある。

 約2カ月の真剣勝負で、レース中の故障やフライング失格など1本のミスも許されない。いわば、夏の高校野球と同じ全国トーナメント。柴田監督は一発勝負の過酷なトーナメントを勝ち抜く経験が、桐生の将来につながると感じていた。

 もちろん、ただ両方の大会に出したわけではない。高2の秋に10秒19を出した段階で、世界選手権出場の可能性を考慮。桐生にけががなくても、約3週間に1度のペースで足の磁気共鳴画像装置(MRI)をとらせた。練習やレースの負荷によってどのように筋肉が変化するか。その状態に応じてメニューを変えて、けがの兆候がみえれば、休ませた。この徹底したリスクマネジメントが世界選手権と高校総体の両立というミッションを成功させた。

 桐生は7月、大分での全国高校総体で「998」のナンバーをつけて走りまくった。まず100メートルを10秒19で制して、高校総体の個人タイトルを初獲得。「やっととれたという感じ。高校生にとって最高の大会で優勝できた」と喜んだ。200メートル、400メートルリレーも合わせ短距離3冠を獲得、チームも総合2連覇。桐生は高校総体路線で予選から27レース走って、すべて1着=全勝だった。

 休む間もなくモスクワに乗り込んだ。100メートルはわずか0秒01差で惜しくも予選敗退。「0秒01差で負けることはあまりない。日本では体験できない」。400メートルリレーでは1走を務めて6位入賞。同選手権で日本勢初の高校生入賞を果たした。「4月の織田記念からあっという間だった。全部が初めてで、全部が思い出になる。このモスクワがあって、また世界にいこうという気持ちがある」。これまでけがに泣かされたうっぷんを晴らすように、高3の「ジェット桐生」はシーズン通じてタフに走りまくった。【益田一弘】

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。陸上担当として初めて見た男子100メートルが13年4月、織田記念国際の10秒01。昨年リオ五輪は男子400メートルリレー銀メダルなどを取材。