3月5日、2020年東京パラリンピック開幕まであと2000日の節目を迎えた。東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市になる。1964年の東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん(79=高知県安芸市在住)に、当時とその後の人生を振り返ってもらうことで、パラリンピック開催の意義を探ってみる。

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「自立から車いす公務員日本1号へ」

 東京パラリンピックで近藤さんは競技以外でも印象に残っている光景がある。

 近藤 外国の選手たちが毎晩、選手村内のクラブで飲んで歌っていたんです。そんな陽気な障がい者は見たことがなかった。日本選手はみんな部屋から出なかったもの。スポーツを離れた生活も全然違っていた。とにかくパラリンピックで受けた衝撃は強かった。

 大会後、近藤さんは「自立」を決意して、10年暮らした障害者センターから出た。翌65年、東京の食品保存容器大手「タッパーウェア」の日本法人に就職。同社が結成した車いすバスケットボールチームのメンバーになった。

 近藤 ジャスティン・ダート社長の「障がい者が弱いのではなく、日本の障がい者政策にスポーツが入っていないから弱いんだ」の言葉に刺激を受けました。合宿所暮らしで毎朝20キロのロードワークが日課で、体力と競技力、何より自分に自信がつきました。

 66年のチーム解散後も仕事を変えて競技を続けた。仲間を集めて新チームをつくった。そこで難題にぶち当たった。

 近藤 どこも体育館を貸してくれない。タイヤの跡がつくからと。何とか借りた新宿の体育館も入り口に階段があって車いすでは入れない。都庁に通ってスロープをつくるよう訴えました。それが東京の障がい者が町づくり運動を始めるきっかけになったんです。

 以来、近藤さんは障がい者が生活しやすい町づくり活動に本格的に取り組むようになる。その縁で74年、「緑と車いすで歩けるまちづくり」を目指していた町田市に職員として採用された。39歳だった。

 近藤 車いすに乗った公務員の日本第1号でした。まだバリアフリーという言葉もありません。私は街に出て、障がい者の視点からいろんな提案をして、「福祉環境整備要項」の作成にかかわりました。

 95年の定年退職まで21年間、町田駅前のスロープやエレベーターの設置など、障がい者にやさしい町づくりに尽力した。07年に妻の地元、高知県安芸市に移住して、現在は障がい者の自立支援施設を運営している。

 5年後、近藤さんの人生を変えた東京パラリンピックが再び開催される。

 近藤 前回のパラリンピックは障がい者が社会に出るきっかけになった。それから半世紀で日本は大きく変わった。科学技術も経済も世界トップレベル、そして世界一の高齢化社会を迎えます。ですから障がい者も高齢者も一市民として生活できる、そんなモデル社会を世界にアピールしてほしい。こんなチャンスもう巡ってこないですから。

【取材・構成=首藤正徳】