世界で戦う道を開いてくれたのは「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋(広之進)さんだと思っている。日本の出場が認められなかった(1948年の)ロンドン五輪と同じ日に行われた日本選手権で世界記録を連発し、戦後の国民的英雄になった。日本水連会長時代、代表合宿などで現役当時の話をよく聞かせていただいた。

 芋しか食べられずレースに出たこと、日本の国際復帰へマッカーサー元帥に直談判したことなど、印象に残っていることは多い。最後に話したときのことは忘れられない。古橋さんは左手中指を切断している。いつも失った指のある左手を隠していたが、あのときは左手を見せながらケガの経緯を説明した。

 戦争の激化で水泳ができない。学徒動員で浜松の工場での作業中に左手中指の第1関節から先を失う。水泳選手としては大きなハンディだったが、猛練習と創意工夫でカバーした。「指を切断しても泳ぎ続けた」と話す姿には迫力があった。恵まれた現代。古橋さんの話を聞けた最後の世代だが、とてもプラスになったし、水泳に注いだ情熱を受け継いだ自負もある。

 金メダルへの道を開いてくれたのは中学2年から師事した平井伯昌コーチ。常に選手と同じレベルにいるコーチは多い。時には選手がコーチの上に行ってしまうケースもある。平井コーチは違う。金メダルを取っても、次はこうしていこうとか、先の目標を立てる。常に1歩2歩先を行ってレールを作ってくれた。

 03年の世界選手権の前に、平井コーチは「世界記録で金メダル」とぶち上げた。「えっそんなこと言っていいの」と戸惑いは隠せない。最初は無理だろうと思っても、平井コーチの指導を受けていると、だんだん強くなる。この人についていけば金メダルを取れると思えた。だから若いときは、平井コーチの目標についていくことが大変で、いっぱいいっぱいだった。

 平井コーチは僕の考えが手に取るように分かったという。自分も心が全部見透かされているように感じていた。まさに以心伝心の関係。拠点を置いた米国から4年ぶりに戻ったときも平井コーチ以外の選択肢はなかった。弱くなった自分を見て、もう1度、自信と強さを取り戻そうとしてくれた。平井コーチの指導を受けることで、真剣に水泳と向き合えた。だからこそ最後はもう1度、平井コーチと五輪に行きたかった。

 4月の日本選手権の100メートルは、準決勝で1位だったが決勝はタイムを落とし、代表選考から漏れた。平井コーチが決勝直前の指導法を悔やんでいると聞いた。その悔しさは僕が背負うべきで、平井コーチが背負うべきではない。平井コーチの指導者としての人生は続く。次の世代の選手、コーチに僕を指導した経験を伝えてほしいし、いかしてほしいと思っている。

 ◆古橋広之進(ふるはし・ひろのしん) 1928年(昭3)9月16日生まれ。静岡・雄踏町(現浜松市西区)出身。日大卒。48年の日本選手権400メートル自由形などで世界新。翌49年全米選手権でも世界新を連発。日本水連、JOC会長などを歴任。享年80。