11月5日、阪神の38年ぶりの優勝で日本シリーズが終わった。
頂上決戦連覇にはあと1勝届かなかったが、オリックスはリーグ3連覇。偉業は何ら色あせるものではないが、最終戦を終えた選手たちが京セラドーム大阪の駐車場に出てくるのを待ちながら、寂しさが募った。この日と同じメンバーによる試合を見ることは2度とないのだ、という思いからだった。
試合終了後、球団はメジャー移籍を望んでいたエース山本のポスティング容認を発表。外国人選手たちが来季、チームに戻ってくるかは未定。チームが変わっていくことをひしひしと感じる試合後だった。
用具担当の松本正志さんにとっても、日本シリーズ最終戦は最後の公式戦となった。日付が変わり、選手の愛車も見えなくなった駐車場を横切る姿を追いかけた。振り返った松本さんは「ぼくにとって最初と最後の日本シリーズがどっちも7戦目までやで。すごいなあ」と優しい笑顔を浮かべた。
1977年の夏。東洋大姫路(兵庫)のエースとして第59回全国高校野球選手権大会を制し、同年秋のドラフト1位で阪急(現オリックス)入り。プロ1年目でヤクルトとの日本シリーズを経験した。第7戦の6回裏、ヤクルト大杉が後楽園の左翼ポール際に放った大飛球の本塁打判定を巡り、阪急上田監督が猛抗議。1時間19分もの中断で左膝に水がたまり、続投できなくなった先発の足立に代わって登板したのが松本さんだった。
大杉の次打者マニエルにソロを浴び、0-3に。後続は断ったが、阪急はシリーズ4連覇を逃した。松本さんにとって、選手としての日本シリーズ登板はそれが最後になった。思うように成績を伸ばせず、87年に引退。以来、用具担当一筋でチームを支えてきた。
球団に残れたことを喜ぶ反面、最初は葛藤もあった。中日小松、広島川口ら同年代の投手がエース格として活躍する姿を見るにつけ、まだ負けんぞ、とあがくことすらできなくなった立場に寂しさが募った。だが26歳で結婚もした。夫人の両親に心配をかけられない思いもあった。「この仕事を一生懸命にやっていたら、好きな野球に携わっていられる。ここからが勝負と思った」。球団から2度ほど他の業務への打診も受けたが、断った。すべてにおいて遅れの許されない用具担当の仕事を続け、後輩の成長を見守ってきた。
その人生にも、一区切り。「元気なうちに、次の人生も楽しみたい。家族サービスもしないと」と松本さんは笑った。21年は東京ドーム、22年は神宮、23年は高校時代の自身を育ててくれた甲子園での日本シリーズを経験できた。それも、長年の仕事に別れを告げるきっかけになった。
キャンプ地の業務の引き継ぎもあり、来春までは仕事を続ける。だが試合に携わるのは11月5日が最後。そう決めてはいるが、平野佳らは「来シーズンも、来られますよね」とたずねてきた。選手たちが離れがたい思いを抱く。松本さんは、そんな仕事人だった。【オリックス担当 堀まどか】




