元ロッテの和田孝志氏は19年夏に母校・拓大紅陵(千葉)の監督となった。現在は監督業の傍ら、昼間は教員免許取得のため大学の授業を受ける毎日。10月には教育実習も終わり、51歳にして、来春には教員免許を取得し新たな道を歩む。
きっかけは選手の涙だった。16年8月から非常勤で投手コーチを務めた。引退後は飲食店を経営しながら知人の野球スクールを手伝っていたこともあり、快く引き受けた。週末2日間の指導。「OBですしね。声をかけていただいたときはうれしかった」と振り返る。
初めて練習に参加した日のことだった。レギュラー組とスタッフは遠征へ。残留組の練習を任された。その時、ベンチ横で上級生と下級生がもめている光景が目に飛び込んだ。すぐに上級生を部屋に呼び「自分と合わないやつなんて世の中にいくらでもいるんだ。こんなことをしていたら、お前の人生が台無しになるぞ」と、優しく語りかけた。
上級生は夏の大会でベンチに入っていたが、秋はベンチ外。そんなストレスもあったかもしれない。「今は残留組かもしれない。でも一生懸命やればベンチに入れるんだ。頑張れよ」と話しかけた瞬間、大粒の涙をボロボロと流した。もっと見て欲しい、声をかけて欲しい。その涙に言いようのない寂しさを感じた。結局、翌春に退部。夏には部内で不祥事も発覚した。「指導者としてもっと何かが出来たのではないだろうか」と悔しさが込み上げた。「技術だけ教えるならプロ。でも俺は『人として』ということを教えるにはド素人。自分自身に知識がないと子どもたちを導けない」。自分が監督になったら、とことん選手と向き合い育てたい。19年春、一念発起して大学復学を決め、教員免許取得を目指した。
19年8月に監督に就任すると、大学、練習、夜は飲食店と多忙を極めた。監督就任後、初めて迎えた県大会では準優勝。しかしセンバツ出場をかけた秋季関東大会では初戦敗退。「すべてが中途半端になるのではないか」。20年3月で約13年間経営した飲食店の閉店を決意。監督、教師に人生をかける覚悟を決めた。
プロ野球界の感覚と高校野球界との違いを、ひしひしと感じている。「プロは技術を教えれば自然とうまくいくと思っていました。でもそれは違った。技術を教えるには、学ぼうとする姿勢と、吸収力がなければならない。そこから教えるのが、監督の務めなんです」。まずは選手たちの意識改革から。「目的と目標があれば、人は変われるよ」。自ら学ぶ姿を手本に、選手たちに何度も繰り返し話す。監督と選手、ともに学び、成長した。【保坂淑子】(この項つづく)
◆和田孝志(わだ・たかし)1970年(昭45)10月7日、埼玉県生まれ。拓大紅陵では3年夏に甲子園出場。東洋大2年春の亜大戦でノーヒットノーラン達成。92年ドラフト3位でロッテ入団。02年引退。通算72試合で2勝3敗、防御率3・67。09年ロッテ2軍投手コーチ補佐。19年8月から拓大紅陵の監督。現役時は177センチ、75キロ。右投げ右打ち。





