今年4月に完全試合を達成したロッテ佐々木朗希投手(20)が、岩手・大船渡高の最速163キロ右腕として国内外の注目を集め始めてから3年になる。希代の才能と交わった若者たちは今、何を思うか。それぞれを訪ねた。

    ◇    ◇    ◇  

大船渡高の主砲だった木下大洋さん(21)と3年ぶりに話した。違和感がある。イントネーション。

「ちょっと入っちゃいます、話していると勝手に。帰省するともちろん岩手の言葉になりますけど。友達にはいじられて」

関西弁を操り始めた自分に気付いた。「地元では『正直こう思う』と言うのをこっちでは『正味こう思う』って言うので」。港町の大砲は京都・同志社大に進み、3回生の夏を終えた。

佐々木朗希の大船渡高時代のチームメート、同志社大・木下大洋(撮影・金子真仁)
佐々木朗希の大船渡高時代のチームメート、同志社大・木下大洋(撮影・金子真仁)

父清吾さんは84年に甲子園で「大船渡旋風」を巻き起こした一員だ。兄2人も大船渡高で活躍。「自分も大船渡のタテジマで」しか頭になかった。投の佐々木、打の木下として君臨。卒業後は長兄の大地さんと同じように、指定校推薦で同志社の門をくぐった。

すぐに圧倒された。大阪桐蔭に天理。周囲は強豪校のOBばかり。エネルギーは強烈だ。「最初にミーティングがあって、その時にみんなを見て、はぁ~…みたいなのが第一印象で。この中で本当に自分はやっていけるんだろうかと」。笑いながら思い出す。

笑えるのはもう、区切りをつけたから。幼少期に隣宅の庭までかっ飛ばし、高校では通算28本塁打をマークしたスラッガーも、大学通算本塁打は1本のみ。「実は自分、選手を引退したんです」。腰のケガに苦しんだ。背番号62。今は学生コーチを任される。

「自分、1つ決めてることがあって。その人のスイングの元あるものを変えるんじゃなくて、否定するんじゃなくて。さらに良くするにはどうすればいいか。0から1じゃなく、1から2、みたいな」

強豪出身の後輩たちにアドバイスを求められることも多い。もし今、高校時代の大エースにアドバイスを求められたとしたら?

「いや~、それはちょっと厳しいっすね~。もう、すっごい活躍されてるんで。僕が教えるまでもないですよね~」

うれしそうに目を細める。高校時代はもっと、ドシッと構えている存在に見えた。岩手を出て、新世界で生活し、木下大洋の海原をどんどん広げる。

「人の役に立てるような仕事に就きたいですね。人を笑顔にしたい、人を笑わせたいなって。大きな声では言えないですけど。恥ずかしいんで」

窓越しに女子マネジャーたちがいる部屋で、将来をささやく。大船渡時代を思い出しながら、ささやかな夢も口にする。

「自分、みんなで集まってもう1回野球やりたいなと思ってて。ガチンコじゃなくて、どこかの球場で紅白戦みたいな感じで」

19年5月、釜石戦で、大船渡・木下の本塁打でガッツポーズする佐々木朗希(左)
19年5月、釜石戦で、大船渡・木下の本塁打でガッツポーズする佐々木朗希(左)

プロも注目した豪快な放物線をもう1度。いまだ世の話題になる岩手大会決勝、花巻東との再戦なんていかが?「いや~、花巻東はもうおなかいっぱいですね~」。秒速回答だった。【金子真仁】(つづく)