田中が捕手出身であることは、意外と知られているかもしれない。生まれ育った兵庫・伊丹の軟式少年野球チーム「昆陽里(こやのさと)タイガース」では、坂本勇人(巨人)とバッテリーを組んでいた。

甲子園のインパクトがあまりに強いため、駒大苫小牧高に入学してからもマスクをかぶり続けていたことは、それほどフォーカスされていない。強肩が目に留まり、地元関西の強豪校からの誘いもあった。しかし田中は、全国的な実績が積み重なっているわけではなく、しかも親元から遠く離れ、長く厳しい冬の待つ北海道の高校へ進学した。

銀世界の中で練習するのは当たり前。予想していた以上に過酷だった。

「3年間は…やっぱりきつい練習でした。雪が積もっていても、雪かきをして凍ったグラウンドの上でノックも受けましたし、フリー打撃も、シート打撃もやってました。イレギュラーはするし…もう1回あの練習をやれと言われれば、嫌ですね。絶対無理です」

野球少年が少しずつ覚醒するキッカケが、北海道での日々にあった。肩を買われ、投手としてマウンドに向かうことも徐々に増え始めた。捕手としてホームベースの後ろからダイヤモンド全体を見つめ、投手としてマウンドから打者を見下ろす。繰り返すうちに、野球観の原風景が培われていった。

「確かに、捕手をやっていたことは、今も投球をするうえでかなり影響していると思います。配球にしても、捕手の意図をくみ取ることは大事だと思っています。自分の意思のある球を狙ってたころに投げられれば、同じスピードでも意思のない球より、抑えられると思ってます」

駒大苫小牧高は、04年(平16)秋の明治神宮大会に出場した。1年生の田中にとって初の全国大会だった。捕手として出場したが、極度の緊張を覚えた。

「チームで勝ち進んだという感覚。みんなで勝ち取ったというか、同じ方向を向いてやってました。僕は、本当はノミの心臓なんですよ。実は、いつも緊張しまくってます。甲子園に出た時は、マウンドに上がった時よりも打席に立ったときの方が特に緊張しました」

ポツリと漏らした「ノミの心臓」のひと言。根底には自らの力で相手を抑え込む「投手目線」以上に、チームとしての勝利を最優先させる「捕手目線」があった。踏み込んで言えば、そこに捕手出身ならではの「危機管理」が加わり、現在の野球観にも直結している。単純に、力任せに投げたい球を投げるのではなく、バッテリー間で意思疎通のできた1球こそが、本当の勝負球になる-。

「捕手目線」を投手に落とし込み、磨き上げた3年間。プロ入り後、史上最高の捕手からの教えを糧とし、球界を代表する投手へと成熟していく。(つづく)【四竈衛】

05年1月、雪が残りピカピカに凍ったグラウンドで練習する駒大苫小牧の選手たち
05年1月、雪が残りピカピカに凍ったグラウンドで練習する駒大苫小牧の選手たち