平成は甚大な自然災害が続いた時代でもあった。東日本大震災から8年を迎えるにあたり「災害と野球」を取り上げる。

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ナイター照明に浮かび上がる緑の芝。「がんばろうKOBE」の袖章をつけた選手たち。日ごと声量を増す右翼席の「イチロー」コール。1995年(平7)、女性だけのオリックス応援団を率いる大学2年生、小沢直子さんは、グリーンスタジアム神戸(当時)でトランペットを吹きながら思った。

「ここだけ何も変わってへん。まるで別世界のようや」

その年の1月17日未明、巨大地震が兵庫県南部を襲った。倒壊した阪神高速、炎上する長田の市場、無残な姿をさらす三宮の繁華街。路地を入れば、崩れ落ちた住宅が、あるじを失い、手つかずのまま残っている。道ばたに手向けられた花束は、誰かがここで死んだことを教えてくれる。神戸市民の悲しみや絶望が、変わり果てた街のそこらじゅうに転がっていた。

自身も自宅が全壊。隣の市で営んでいた洋品店も被災した父は「商売、やめなあかんな」と途方に暮れていた。大学を辞めて勤めに出ようかと、本気で考えた。何より、1月17日に死んでいたかもしれない。大好きなオリックスの応援に飛び回り、好きなように生きていた「それ以前」を思うと、自然に涙がこぼれてくる。去年と何も変わらない球場だけが、生活の現実を忘れさせてくれた。

震災から8カ月後、チームはリーグ優勝を決めた。イチローが、田口が、仰木監督が、ファン、神戸市民、兵庫県民を勇気づけ、喜びを分かち合った。人々は95年のオリックスを神戸復興の物語と重ねて、今も語り継ぐ。

「でも」と、43歳になった小沢さんは振り返る。「開幕当初は、選手たちもファンも『こんな時に』という気持ちが、どこかにあったように思います。非常事態に野球なんて不謹慎やないか、と。多くの人が、野球が復興に結びつくとは考えてなかったと思います」

雰囲気が変わり始めたのは、首位に立った6月ごろだった。チームの快進撃が、立ち上がる神戸の街と重なって、ファンが続々と球場に詰めかけた。選手たちは、それに応えようと投げ、打ち、走った。選手とファンの心が通じ合えば、チームはもっと強くなる。地域社会も元気になる。都市と球団、ファンと選手のあるべき関係性を初めて、しかもはっきりと意識づけたのが、95年のオリックスだった。

2011年、東北を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災が発生する。小沢さんは、即座に東北復興へ声を上げた楽天の選手たちの姿を見て、時の流れを感じると同時に感動したという。「『こんな時に』と言う人は、もういなかった。プロ野球が震災復興の光になると、選手も学んでいたから、声を上げたのでしょう。その意味で95年1月17日は、今のプロ野球の原点やと思います」。【秋山惣一郎】

◆小沢直子(おざわ・なおこ)1975年(昭50)、神戸市生まれ。91年、オリックスの神戸移転と同時にファンに。94年には、女性だけの私設応援団「関西雨天中止」を結成。現在はテレビ番組制作会社で報道番組を担当。元近鉄応援団の夫との間に小5の娘、小1の息子がいる。大阪市在住。

ほっともっとフィールド神戸の前で応援タオルを掲げる小沢さん
ほっともっとフィールド神戸の前で応援タオルを掲げる小沢さん