さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第8弾は大野倫氏(44)が登場します。

 沖縄水産時代は2年連続で甲子園準優勝に貢献しました。3年夏はエースとして、痛めた右肘をかばいながら1人でマウンドを守り続けました。

 しかし、大会後に病院で検査したところ右肘は骨折していました。投手生命は甲子園で絶たれ、悲劇のヒーローと呼ばれました。

 彼はどのような思いで投げ続けていたのでしょうか?

 恩師との約束、仲間とのすれ違い、外野手としてのプロ入り。

 そして中学生の指導者になった今、彼はどのように選手を導いているのか。

 大野氏にとっての高校野球を全12回でお送りします。

 6月21日から7月2日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


取材後記


 91年夏の甲子園。当時、小学1年生でその春に野球を始めた私にとって、深く記憶に残る大会でした。中でも、準優勝した沖縄水産のエース・大野倫の姿は、私の少年時代に大きな影響を与えました。悲劇として、今もなお語り継がれる「773球」。小学1年だった私は「かっこいいな」と憧れ、1人でマウンドを守り抜く究極の「エース」を目指しました。

 あれから26年が経ちました。私は幼心に抱いた憧れよりも、当時何があったのか、悲劇の真実を知るために沖縄へ向かいました。

 飛行機に乗っている間、あらためて当時の新聞記事を読み返しました。大野さんにとって、思い出したくない過去かもしれない。そう思っていました。

 緊張しながら、待ち合わせ場所の喫茶店の扉を開けました。大野さんは笑顔で迎えてくれました。「わざわざ、東京から大変だね。とりあえず、そこに座ってください」。そう言って、席を勧めてくれました。

 私は最初に「すみません、何度も聞かれたくないことだと思いますが…」と言いました。すると、大野さんは「全然、大丈夫ですよ。もう26年も前の話を取り上げてくれるんですか? 僕が、覚えてることはお話ししますよ」と笑顔で答えてくれました。取材後、録音メモを聞き返しました。私は「ひじ」という言葉を100回以上繰り返していましたが、穏やかな表情、丁寧な受け答えは変わりませんでした。

 不可欠な質問がありました。大野さんは栽監督を恨んでいたのか。本心を聞きたいと思いました。大野さんが栽監督を恨んでいると書かれた記事の存在を知っていたからでした。しかし、事実は違いました。魂の「773」球は監督への憎悪の歴史へとねじ曲げられ、間違って伝えられていたと分かりました。

 実は当時のチーム内でも、衝撃的な「勘違い」が起きています。大野さんが自らのケガでチームが結束したと主張する一方、チームメートは大野さんの不調でバラバラだったチームが結束したと証言しました。今でも年に数回、当時のチームメートと食事するそうですが、取材を通じて、明らかになった事実もありました。

 詳しくは、ぜひ日刊スポーツ紙面の連載を読んでください。

 大野さんの好意で、当時のチームメートだった屋良景太さん、知念直人さん、末吉朝勝さんに集まってもらいました。3人とも、沖縄水産が大好きでした。取材の最後、大野さんは「沖水でやったから、今の僕があると思っています」とほほ笑んでいました。その表情は悲劇ではなく、感謝と喜びが込められていました。【久保賢吾】