さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第20弾は西本聖氏(61)が登場します。

 甲子園で活躍した2人の兄を追い、名門の松山商(愛媛)に入学し、1年春から公式戦に登板するなど期待されていました。ただ、上下関係も練習も全国で最も厳しいと言われた環境に耐えかね、2度も脱走事件を起こしました。結局、1度も甲子園の土を踏むことはできませんでした。

 しかし、努力の大切さを知り、プロ野球での活躍につながる3年間でもありました。

 西本氏の高校時代を全8回の連載で振り返ります。

 10月15日から22日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 9月中旬、西本聖さんの母校、松山商を訪ねた。松山市の中心街に学校はあり、路面電車を最寄りの停留所で降りて歩くこと3分。突如、校舎が姿を現す。校門の向こうに見えた校庭が野球部のグラウンドだった。

 数日前に重沢和史監督(49)に連絡すると「放課後4時くらいから練習が始まります」とのこと。4時ちょうどに校門に着いた。すると丸刈り頭の野球部員が1人、立っていた。私の姿を見つけると「新聞社の方でしょうか。ご案内します」。これまでいろいろな学校を取材したが、校門で出迎えてもらったのは初めてだった。ネット裏で監督さんにあいさつ。お茶をいただくと女子マネジャーが学校を案内してくれた。学校の玄関前にある記念碑、玄関に飾られている数々の優勝盾など。松山商の栄光の歴史が伝わってくる。さらに女子マネジャーはメモを片手に「松山商は夏将軍と呼ばれます」などと野球部の歴史を教えてくれた。もちろんこんなことも初めての経験だった。

 ウオーミングアップが終わるとシートノックに入った。松山商の伝統は「守りの野球」。小柄な重沢監督自らノックバットを握ると激しいノックが始まった。

 1本、1本が真剣勝負。ミスをした選手には容赦ない怒声が飛ぶ。それでも重沢監督はなぜミスを犯したのかを怒鳴りながらもしっかりと説明する。その説明が実に的確だった。何とかうまくなってほしい、試合で良いプレーをしてほしい…。そのひと言、ひと言には監督の願いと愛情がこもっている。受ける選手も必死にボールに食らいつく。全員が直立不動で監督の話を聞く。ミスが重なると全員がその場で10回ジャンプ。ノックから一時的に外される選手もいた。

 いつの間にか陽は落ちナイター照明に灯がともった。それでもノックは続く。グラブの芯で捕れず、素手でノックを受けるよう命じられた選手がいた。1本目、捕球できず。2本目、左手をはじかれた。3本目、「パチン!」という音が鳴り捕球に成功。一塁に矢のような送球をしてようやくグラブをはめることを許された。

 時間がたつのを忘れ思わず見入ってしまった。高校野球の練習を見て感動したのは久しぶりだった。時計を見ると午後の6時を過ぎていた。西本さんの現役時代から松山商のノックは名物だったそうだ。「ノーエラー」と呼ばれたノックは全員がノーミスで終わるまで続けられた。それを見るために「松キチ」と呼ばれる熱狂的な地元ファンがグラウンドに押し寄せたという。

 1時間以上ノックを打ち続け、選手を叱咤(しった)激励し続けた重沢監督は汗びっしょりだった。前任の川之江で甲子園ベスト4。09年、100年超の長い歴史の中で、初めてOB以外の監督に就任した。グラウンド近くの野球部寮に住み込み、夫人は寮母として部員の面倒を見る。生活のすべてを松山商野球部にささげて甲子園出場を目指している。

 「僕も少年時代、松商野球部に憧れました。中学3年の時は松商に入るつもりで練習に参加したこともあるんです。事情があって地元の今治西に進学しましたが、選手には『ここで野球をさせてもらえることがどれだけ素晴らしいことなのかをかみしめてプレーしよう』といつも言っています。選手は本当に一生懸命やってくれています。何とかして27回目の夏、17回目の春に出て、爪痕を残して卒業させてあげたい。そう自分に言い聞かせてやっています」

 甲子園は01年夏以降、もう16年も遠ざかっている。この秋も地区予選で済美に敗れた。それでも熱い練習を見学し、熱い指揮官を取材して思った。松山商はいつか必ず復活する、と。これだけの情熱で選手も指導者も練習に取り組んでいる。わずか5時間足らずの滞在で、私もすっかり「松キチ」の1人になってしまった。【福田豊】