江川の進路先を巡って、父の二美夫は「進学ができて、野球も強い」高校の情報収集に腐心した。

 それだけ大学進学にこだわったのには、わけがある。二美夫は男4人、女2人の6人きょうだいの次兄として生まれた。生家が経済的に貧しく早くから働かなくてはならず、福島県内の平工業学校(現平工)卒業後、就職。大学進学が許されたのは、京大に進んだ三男だけだった。

 江川は言う。「行きたかったけど行けなかった無念さを、オレが子どもの頃からよく聞かされた」。息子にはそんな思いはさせたくない。もう1つの理由を、こう続けた。「もしプロ野球にいったって、35、36(歳)になればやめるんだから、その後の人生も考えながらやれよ、ということも言ってた。多分、自分の学歴という壁にぶち当たったんだろうね」。

 江川の記憶では、二美夫は栃木県内にとどまらず、広く埼玉県にも足を運び、大宮、浦和といった高校の情報も収集したという。

 思わず、耳を疑った。確かに、それまでに大宮は春2度、夏5度の出場を誇り、選手権でベスト4に進出している。「問題」は、浦和だ。センバツに2度出場しているが、ともに35、37年の旧制浦和中時代のこと。今は、埼玉県内トップの進学校であっても、甲子園常連というには、やはり無理がある。

 「東大、という選択肢もあったからだよ。甲子園に出て、ベストは東大だけど、次いで早慶から巨人…というのがおやじの考えにあった」と江川は話した。二美夫の一番上の兄が大宮在住で、江川をその養子にして通わせるプランまで検討された。

 こうなると、68年に選手権初出場を決めていた地元の小山とはいえ、旗色が悪い。怪物争奪の戦況が、微妙に色合いを変え始めた頃合いだった。

 熱心に江川を勧誘したうちの1人、日大三の当時の監督は、萩原宏久(13年3月23日、68歳で死去)だった。その素質にほれ込み、練習を見に日参していた。江川は巨人入り後、チームのトレーナーに転身していた萩原宏久と再会。その後江川にとって、自らの体調管理に全幅の信頼を置く存在となるのだから、まさに縁は異なものだ。

 それでも、決め手になったのは、やはり「早慶進学」だった。日大三はこの頃、両大への輩出がほとんどなかった。それに栃木県教育委員会から「本県在住の人は、栃木の学校を受験してほしい」と、他県での受験にいい顔をしなかったと、後に江川は二美夫から聞かされる。

 そこで再び浮かび上がるのが「小山本線」。誰もが、江川は小山にいくものだと思うようになった。そこへ、またも問題が発生。願書を出した直後に、同高にはその時点で大学進学のカリキュラムを組む「普通科」がないことを知るのだ。

 「(小山では)早慶は難しそうだ、となった。もう受験日も迫ってるしギリギリの選択だった。おやじは『どうするんだ !? 』と騒いでいたんじゃないの?」。

 袋小路に迷い込んだタイミングで浮上したのが、作新学院だった。既にセンバツ、選手権ともに3度ずつ出場し、62年には初の春夏連続の甲子園制覇を遂げた。実績は申し分なし。二美夫が快哉(かいさい)を叫んだのが、「Aダッシュ」と呼ばれる、少数精鋭の国公立大学進学クラスが存在したことだった。

 かくして「進学主、甲子園従」の落ち着き先が決まった。が、「怪物」の進路決定にはそのつど、長く、折れ曲がったプロセスがつきまとうことになる。大学進学もしかり、プロ入りもしかり、だった。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)